お祭りって、いろいろ
何度も書くのだけど……100㎞も移動すると、日本の伝統文化は違うものです。昔は今のようにトンネルもないし、車もないし、山を越えるのもの一苦労。
私は20代後半のころ、CATVの市政広報の番組制作をしていて、とある市内をマニアックに走り回っていました。
ありがたいことに、そこは古い歴史のある町で、海沿いには古墳と工業地帯が同居しているような街でした。全国的な製造工場もいくらかあったので、市としての税収が豊富で財政が豊かな地方自治体でした。
古墳時代から現代までの層になった歴史文化を感じ、町の在り方がレイヤー毎に手に取るように分かったので、走り回っていても面白かったのです。
そしてその市は、当時の全国的な市町村合併の流れをうけ、隣市と合併と相成るワケです。
私は番組も続投し、当然取材対象地域が同じように広がりました。市の端から端まで車移動で1時間半とかかかって「同じ市内なのに!」と、悶絶しました(笑)。何しろ、海沿いから山に向かうと、その先がすでに県境。……もう、今までの「市」の感覚ではありません。「これは、ちっちゃい”藩”って言っていいですか?」 みたいな。
ただ、広範囲を車でぐるぐるする上で、地域の空気感の違いが分かってきました。
もともと、私の育った集落は1000年以上つづく集落。当初の市内は、同じように1000年代を経ている土地なので、なんとなく土地の空気とか住んでいる人のノリが似ているところがあるんですよね。
市町村合併で広がった担当地域をたどってみると、歴史をたどると400年とか割と長いのだけど、人が荒い印象の土地があったり……とか。心の中に小さな違和感が起こってきたのです。
「地域の空気感」っていうのは意外と「お祭り」に出てくるものです。
さて、わらべ唄の連載が始まって同じ県内の内容でも、知っているかというとそうではありません。毎度、わからないことだらけでした。
その中の、良く分からなかった祭りの一つが今回の「亥の子」です。
子供たちがひもでくくった大きな石をついて、各家庭の玄関先をめぐります。
同様のお祭りが、各地に同時多発的に伝わっています。不思議ですよね。私の育った1000年村には亥の子をつく習慣はなかったですので、うちの集落の発生後かなりたって生まれたお祭りなんだろうな、とも感じます。
ふるさとのわらべ唄 戎谷和修 <12> 亥の子唄Ⅰ(一で俵ふんまえて)
歌詞
一で俵ふんまえて
二でにこにこ笑ろて
三で盃うけおうて
四つ世の中ええように
五ついつものごとくに
六つ無病そくさいで
七つ何事ないように
八つ屋敷を広め建て
九つここらで蔵を建て
十で殿様の槍の先ょ祝え
(周防大島町久賀)
十月に入ると、色紙や短冊で飾った竹を担ぎ「祝い込め」と言いながら、亥(い)の子を搗(つ)いて回った。県内では多くの所で、「大黒舞」の唄が亥の子唄として歌われている。
周防大島町久賀の漁師浜田常一さんから「子どものころ、『一で俵ふんまえて』と歌うて搗いて、お布施をもらいよった。年をとった人が二、三人ついて来よった。亥の子様いうて亥の子石を飾っての」という話を聞いた。大黒舞の歌詞は普通「十でとっくりおさめた」である。しかし、久賀では「十で殿様の槍(やり)の先ょ祝え」と、ほかの数え唄の歌詞が付いている。
長崎県対馬市浅藻を採訪した人からも、亥の子唄のテープと話を聞く機会を得た。宮本常一著『忘れられた日本人』に出てくる久賀出身の梶田富五郎さんの子孫たちを訪ねたのである。「今でもわしらは長州人です」と語り、「大黒舞をともに歌っている。久賀から伝わった亥の子唄ではないか」との内容だった。
大黒舞が歌われているだけでは伝わったとはいえない。しかし、対馬も久賀と同様に「十で殿様の槍の先ょ祝え」と歌われているなど、曲の特徴と久賀の漁師が浅藻を開いた事実を照らし合わせると、久賀の亥の子が対馬に伝承したと考えざるをえない。
唄を調べると、人の流れとともに昔の経済、文化、生活圏などさまざまなことがわかってくる。(周防大島町立三蒲小校長(掲載当時))
[記事 中国新聞防長本社提供 掲載日付:2007年10月14日]