童謡|日本史上最強の“ドレミファソ”『すかんぽの咲く頃』

そういえば、稀代の二人の才能が“ドレミファソ”と書いた曲があったなと思い出して。
あれは、日本史上最強の“ドレミファソ”ではないかな……。

童謡100年

「童謡百人一首パッケージ及び絵札」2018 藤田晴子 紙、水彩、色鉛筆

 4年くらい前、童謡百人一首という企画に携わってました(諸事情あり、現在は販売していません)。

 NYで個展をやった翌年の2016年、私がずっと新聞でわらべ唄の挿絵をしているということで、同じ児童画っぽいのならと、童謡100年プロジェクトの方を関わりを持つことになります。とくに、全力で児童画の人ではないのだけどなぁ、と思いながらも、話を聞いてみようとしました。

 1918年(大正7年)7月、児童雑誌『赤い鳥』の創刊されたのが童謡の起源で、100年たつわけです。童謡研究者からは、童謡が生まれた流れ、初期童謡の作詞作曲者の血縁の方から、当時の作家たちの様子や楽曲の作り方などを聞きます。

音楽教育の黎明期「唱歌」に対しての「童謡」

 何しろ、当時は、学校教育で西洋音楽の五線譜にもともと正しく乗るはずのない日本音階を乗せよう、音楽教育の開発途上でした。学校で習う方の歌は「唱歌」と言います。

 当初はヨーロッパの歌に日本語訳をしたものが多かったのですが、それではいかんと、日本語を五線譜に載せ始めた一人が瀧廉太郎。ただ、彼は、23歳とあまりにも早く亡くなってしてしまいます。
 瀧廉太郎が長生きしていれば、ひょっとすると「童謡」というジャンルが生まれていなかったかも、とも、研究者がおっしゃっていましたっけ。

「童謡」の発祥というのが「唱歌」の対局あります。当時、「唱歌」内容があまりに硬く言葉も文語的だったので、日本語の持つ優しさや、イントネーションやリズムを表現するにはまったく足りないと、当時の詩人や文学者たちには思われていたのです。食べ物でいうと「唱歌」は普通の食事で、おやつが「童謡」。

 で、児童雑誌『赤い鳥』の創刊につながります。
 この雑誌の位置づけは文学雑誌です。主宰者の鈴木三重吉は小説家で、夏目漱石の門下生。
 この雑誌から、芥川龍之介『蜘蛛の糸』、有島武郎『一房の葡萄』、小川未明の『月夜と眼鏡』などが生まれました。これはみんな子供たちの為に書かれたものです。

 詩人の代表格といえば、北原白秋、西城八十。
 参加した作曲家としては、成田為三、山田耕筰。

 「童謡」の譜面が乗り始めたのは創刊から1年後で、最初、譜面を掲載するのすら葛藤があったようなのです。綺羅星のような才能を持つ作家がよってたかって、子供たちの為に日本の情緒を表現しまくっていた、ということになります。

 そんなこんなな成り行きを聞いているうちに、たった100年くらい前、日本であったことなのに、日本人が知らないってどういうことだろう、というのも感じました。

楽曲リスト150曲

 2016年当時、童謡を百人一首の形態でゲームの形にしたいと、絵札を依頼されました。当然、いただいたリストには100曲分の歌詞(正確には、童謡、唱歌、わらべ唄:日本の地の歌のミックス)。
 ただ、絵の製作をするにあたっては歌詞だけではイメージがつかめません。作詞作曲者が、何を表現したくてその歌詞を書いているのか確かめる作業が必要になります。それで結局、音源も全部調べました。聞くだけでもまだ浮かばないので、歌詞もまず筆記して読んで、絵のイメージを作りこんでいました。
 制作途中で何度もリストの変更があったので、結局、書いた絵は100曲分どころか150曲くらいでしたけど。

「すかんぽの咲く頃」 北原白秋作詞、山田耕筰作曲

その中でも、曲の強弱があるワケで、個人的にツボにはまる曲が出てきます。
「すかんぽの咲く頃」 北原白秋作詞、山田耕筰作曲。
北原白秋も山田耕筰もキリスト教で、ヨーロッパベースのクラシック音楽と慣れ親しんでいました。


土手のすかんぽ ジャワ更紗
昼は蛍が ねんねする
僕ら小学尋常科 今朝も通って またもどる
すかんぽ すかんぽ 川のふち
夏が来た来た ドレミファソ
(「小学尋常科」はその後「小学一年生」に変更されています)

 山田耕筰は大正7年に東洋人初でカーネギーホールで演奏会を行い成功させた天才です。本人が音楽ができるので、子ども向けとはいえ書く伴奏(どのみち伴奏が大人……)が難しいと評判ですが……。
 北原白秋は稀代の詩人です。しかも、最初は日本語の持つリズムとイントネーションにこだわるあまり、当初は、詩に五線譜メロディーをつけるのを良しと思っていませんでした。 

スイバ:Wikipediaより

 ちなみに、すかんぽ(酸模)は、正式名はすいば(酸葉)ジャワ更紗はインドネシアのろうけつ染めで細かい模様が特徴のもので、「すかんぽ」が「インドネシアのろうけつ染め」のように見えるという表現。イタドリのことをスカンポというようですが、ジャワ更紗には見えないので、多分スイバだとのこと。
 私の地元ではスイバという方が当たり前のような気がします。道草して茎を食べる友達がいました。(……ちなみにクックパットにスイバレシピはかなりあります)

 とりあえず、詩を読んだだけで、小学生の子供たちが楽しそうにキャッキャ言いながら、川のふちを行ってるのが分かります。

今朝も通って またもどる
すかんぽ すかんぽ 川のふち 
夏が来た来た ドレミファソ

……そのまま、ドレミファソって。

 童謡はまず詩が先に作られます。それから曲が後につくのが一般的です。童謡が生まれた大正時代~昭和初期までは、作詞者が書いた詩を作曲者が曲をよりよくするために、ときおり詩の変更を作詞者に依頼するというのもありました。
 たとえば、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「証城寺の狸囃子」。この曲は、千葉県木更津市にある證誠寺(しょうじょうじ)という実際にあるお寺に伝わる狸伝説をモチーフにした唄。

1.証 証 証城寺
 証城寺の庭は
 つ つ 月夜だ
 みんな出て 来い 来い 来い
 おいらの友だちゃ
 ぽんぽこ ぽんの ぽん

当初、野口雨情が書いた詩は……

 證誠寺(しょうじょうじ)の庭は
 月夜だ 月夜だ 友達来い
 己等の友達ァ どんどこどん

「証 証 証城寺」「つ つ 月夜だ」とか「来い 来い 来い」の繰り返し、及び、「どんどこどん」が、「ぽんぽこぽんのぽん」訂正は作曲側からです。

踏まえて、ドレミファソ
作詞した、北原白秋が作曲の山田耕筰と一緒になって、

「”今朝もかよう”と、”またもどる”よね」
「もどるなぁ、川のふちを」
「”ドレミファソ”か」
「”ドレミファソ”だよ」
そうだな、楽しいと「ドレミファソ」って歌っちゃうよね。

 なんていうやりとりが実際あったかどうか分からないけど、おそらく……と、想像できるんです。その二人が「ドレミファソ」って言ってるんですよね。最強すぎ。

優しいことをそのまま表現する難しさ

 たとえば、ヒーローショーで「私は悪者です」と言って登場する悪者。子供に行儀を教えるのに「手はおひざ」。世話になったら「ありがとう」。悪いことをしたら「ごめんなさい」。

 簡単なことを、そのまま表現するのは大人になってから「そんな子供っぽいこと」なんて、照れがあってためらわれたりする。

 子供のために日本の情緒を伝えようとして作られた初期の童謡には、そんな普遍的なところまで追い込んだ単純表現がいくつも出てきます。
 健忘禄がてら。

参考資料:映画『この道』
『北原白秋と山田耕筰が意気投合した日』

竹村忠孝先生のお話。あと最低でも2、3年くらいは集中してお話をお聞きしたかったな。
なお、竹村忠孝先生の映像編集および基本デザインは当方(笑。
先生が素材を自撮りして送ってくださった。