
とある氏の話を聞いたのは、私がまだ中学3年生くらいでした。
当時、母と交流があった日本画家の先生のアトリエに、良く遊びに行っていました。その日本画の先生が独立したのは40すぎてから。
彼女は、もともと京都のとある旅館のお嬢様で、見ているもの、生活で使う器や道具がセンスにあふれていました。残念ながら、彼女の実家の旅館は、お父さんの馬道楽で潰れたそうで、彼女は流れに流れて、その氏のもとに後妻としてやってきたのでした。
ある時、その氏がアトリエに遊びに来ていました。写真館を営んでいました。
日本画の先生には、お店でそろえているような花ではなく野花が喜ばれるからと、母はいつもバケツ一杯に家の周辺にある野花を摘んで、彼女の展覧会とかアトリエに持って行っていました。その時は、たまたまうちで芍薬が咲いたので持って行っていたように思います。
氏がふと話を始めます。
「シベリアは春になると、地平線いっぱいに芍薬が咲くんだよ。
地平線がピンクに染まる。とても美しいんだ」
聞くと氏は、シベリア抑留者だったというのです。
たぶん、そのときの私は「何だって?」って顔をしていたと思います。
シベリア抑留と聞くと、私の地元山口県には郷土の画家、香月泰男の代表的なモチーフ。のっぺりした冷たい泥の匂いがするグレースケール……。当時の私の中でも、シベリアと言えば、色彩がなくどこまでも暗いイメージしかありませんでした。
でも、氏の語り口から恨みつらみがまったくなく、穏やかだったのです。
「ボクは体が弱いから、みんなと一緒にたくさんの荷物を持っていたら持たないのが分かっていたの。
だから、何も持たなかったんだ。スプーン一つも持たなかった」
物を一つも持たずに、極寒の地をどうやって生き伸びたんだろう。
「物を持った仲間がどんどん倒れていったよ。
それで道中行きながら、死んだ仲間の荷物から、自分の必要なものを取ったんだ。
生き残るには、それで十分だった」
仲間が死んで悲しいとかありそうなに、そんなことが微塵と伝わってこなかったのです。その道中を楽しんですらいた、と、私には伝わってきたのです。それで、ただその上、地平線に咲く花が美しいとおっしゃっている。
極限で生き残ろうと思うと、恰好なんかどうだっていいんだな、なんて、かしこい生き残り方なんだろう、と、当時の私は思いました。
この2年後くらいに、氏は他界されました。
ただ、次々に死んでいく仲間を目にし、その遺物を取りながら生き残って帰ってきたという意味は、まったく理解していませんでした。あの時、やもすれば生き残るという私欲のために、冷酷な行為だと誤解されてもおかしくない話を、よく、年端もいかない私にしてくれたもんだな、と感じます。
おそらく氏は、その地平線に浮かぶピンクの稜線を見て、不覚に「美しい」と思うことで、人間性を維持していたのではとも思います。美しいと感じることは、「美しい」ことが何か、理解できる知力がないとできないことだとも思っています。
そして、人は、本当に底にいるとき、笑うことしかできないこともあるってのは、大人になってくると分かることもあるんですよね。
「ボクは体が弱い。だから、何も持たないって決めたんだ」
あれから、約30年。
ときどき、何かを持っていれば命を落としただろう場で、ふと乗り切っていけたのもの、立場は全然違って軽いのだけど、氏の概念違いの話を聞いていたから、っていうのあるかもしれない。
なんて、しみじみ振り返ったりするのでした。