田舎話エトセトラ:1400年前への嫉妬

2011年実家の近所にて

古い町で見た神楽に嫉妬

 日本国内には、地方でも1000年以上人が住み続けた地域があって、実家の集落もそうです。
 私の実家のある山口県下でも、1000年以上続く古い地域は、5・6個くらいあります(もっとあるかな)。

 その中の一つに1400年くらい続く神楽を伝承していた地域があって、くしくもテレビディレクターをやり始めのころ(当時はCATV)取材させてもらったことがありました。

 私は当時20代後半に差し掛かったころでした。そこの市はもう合併して現在こそ市としての形は変わっていますが、海側には古墳もあり、歴史的な文化のある土地でした。
 その長く伝承された神楽は、7年に一度、朝から夕方まで奉納されるもので、アクロバットな振りもあります。それを初めて見た私は、
「1400年前にこんなのを作り出して伝えようとした奴がいたんだ!」
と、1400年前のクリエイターに嫉妬を覚えました。通常、そんなところに嫉妬はしないと思うのですが。不思議な20代でしたけど……。
 今考えてみると、それは、「早く自分の家のことに気が付きなさい」と、ご先祖様に言われていたのかもしれません。
 江戸時代くらいからそこに住んでいるのだというのは、仏壇に上がっている位牌と、当時の絵地図で確認できていたのですが……位牌の奥の方には、享保元年に亡くなったご先祖様がいるようで……。「ただの水のみ百姓」だと思わされていて、実家の在り方そのものが、今や非常に特異であるというのは分からかなかったのです。

童謡詩人に古い家系を見つけるが

「あれこれ言うから強い女だと思っているでしょ?
 違うのよ。使命で生きているの」

 3、4年前、童謡の案件で大正時代に活躍した童謡三大詩人のひとりN氏のお孫さん(70代)と話す機会がありました。有志でバスツアーして、N氏の生家まで訪ねたときです。
 N氏のお宅は元をたどると楠木正成の弟、 正季(まさすえ)の家系で、南北朝時代に戦いに敗れた側の一族。
 武家と文学とでは一見相まみえそうな気もするのですが、お孫さん曰く、N氏の文学の礎には、伝わっていた哲学があるそうです。まさに、臥薪嘗胆の末、世の中に返り咲きましたという感じでしょうか。

 ただ、N氏の創作人としての在り方は、「作家として自分の名前が残るのではなく、作品が残ること」に重きを置いた作家でした。歴史的な作家というと、名前を残したいというガシガシとしたイメージがあったのが、そんな人もいたのかとちょっとホッとしました。N氏の作品は子供の心によりそっているけど、ちょっといつも寂し気な感じがするのです。そして、一環としたやさしさがあります。

 それで、N氏が19代目と聞きました。
 私は次の瞬間「いや……若い……」と思ったのです。さすがに私も良い大人なので、ここでは関係ないと言葉を慎みましたが……。なにしろ我が家の周辺は、各家の墓石を確認すると30~39代だったのです。

実家の地域の集団墓地。手前の墓のお宅は39代目の方が眠っている。実家の墓は上部から二段目。

 はっきり言って、うちの地域に日本をけん引するような気概はありません。負けだの勝っただのドラマチックなものもないですし。
 いや、むしろドラマチックなのがあったほうが目が覚めてよかったかも、とか思ったりもするのですが(笑)。
 おそらく、存続するだけがメインです。ただ残念ながら、本当は存続するのだけでもスキルが必要で、現在ある一般教育では役に立たちません。特に、圧倒的に哲学が足らない感じが、手元資料では良く分かります。……というのを、父の代の大人が全員認識もしていないと思います。ですので、9割の家庭の子供たちは家から出ていき、田んぼと里山の後継がいません。

 さて、童謡作家N氏のお孫さんと、後日再びお会いする機会がありました。くしくも、私のほかにも450年続く古い家柄の方も一緒に。そのときに安心なさったのか、こうおっしゃるのです。

「私は『南北朝時代』を近くに感じるのよ」と。

 すごく同意してしまいました。私も、「その昔は……」と考えると、1000年いきなり飛んだりすることがあるからです。
 嫉妬っていうのは、近しいものに起こりやすい感情で、遠すぎると賞賛しかない感じもします。1400年前の創始者に嫉妬するのは、ある意味自然だったかな、と思うのです。うちには、残すような文化は神社という形くらいしかないですよと。

 日本の国レベルでの土地造成っていうのは二段階に分かれます。一段目は、墾田永年私財法のあたり。それから室町以降。

 実家の地域の土地形状を見ると、第一次日本全国の開墾が行われた、墾田永年私財法のあったあたりだろうと推測されます。一枚の田んぼは小さく、水回りが水脈を使い行き届いている。台風が来ても基本的に風が家を直撃する位置にはありません、
 第二次日本全国規模の土地造成は、室町以降。土地が広く開墾できるような技術が発達し、耕作地が増えました。水をたくさん確保しないといけないので、大規模な水回りとか、地域全部を見て回る水当番などが必要になってきたのです。

 それにしても……。

神社入口の狛犬から見た集落。一望できるところに、神社がある。

 それにしても……。
 うちの父の世代から大きな勘違いをしている気がします。

 私はいいんだ。この土地の隅々まで田んぼがキレイに作られて、春はレンゲ畑がピンクでキレイで、その上を転げまわったりしました。水張った田んぼには、たくさんのオタマジャクシが泳いでいました。夏には青い稲のじゅうたんにい風が駆けるのを見ることができました。それは、作り手が昔からのやり方を継いでいたからです。

 今の人は、それを信じることもできないでしょう。何しろ、見たことがない!

 日本のどこかで、同じ思いをする末端の集落があると思います。

出会うときには出会う

 ……それにしても。

 出会うときには出会うもので、この正月、たった一人でふらりと初詣に氏神様にお参りしたのですが、帰りには、その真下のおうちの奥様に出会うんですね。くしくも、二人のお孫さんと一緒で、お孫さんには初めてお目にかかった。
 それで、またさらに本家の奥様までと、ご挨拶。
 古くから神社を守るご家族の方。

 神社は戦前までコミュニティ施設の役割を果たしていました。今、「公民館」と呼ばれる機能は、もともとは神社にあった機能です。そもそもこれは、第二次世界大戦後、日本人の精神性と社会的生活機能を分断意図し、日本人を弱くする意図があります。
 私のご先祖様も、何かあったら神社に行ってみんなと相談したことでしょう。

 このお宅は、そうした場所に住居を構えてらっしゃるので、お世話する遺伝子がおのずと育っているのかもしれません(弟と同級生の息子さんは得度なされて、現在お坊さん)。

 我が家の位置を思うと、集落の入口ですので見張りか群れの拙攻か、といった感じでしょうか。

 墓の位置も、上の方を支えるところにある気がしますね(二段目手前)。神社のふもとにあるこのお宅は一番上の段。……ただ、この集団墓地は明治以降だと推測されますけど……。

 ま、この状態が1000年以上が続いている、ということです。それが、マネジメント的にも「一番無理がないから」続いたとも言えます。

参考資料:

水と緑と土―伝統を捨てた社会の行方 (中公新書) 富山和子著 

「日本国紀(上)」百田尚樹著