みんな、愛が足らない
「じいちゃん、じいちゃん」
福祉バスの助手席が指定席の小学生の男の子が、運転手さんに向かって言いました。
「は~い」
運転手さんは、何とも言えない優しい返事をするんです。
子供たちが運転手さんを呼ぶのは、だいたい「運転手さん」なんですが、その男の子は運転手さんのことを「じいちゃん」と呼んでいました。その様に、私は、男の子の運転手さんに対する絶大な信頼感と安心感を感じて、思わず目頭が熱くなるのでした。特別養護学校の送迎バスの運転手さんは、物流関連の大型トラックや観光バスのドライバーを引退された方ばかりでした。
「良い子だね~って言ってあげると、みんな笑顔になって安心するんだよ。みんな、愛情不足だからね!」
と、とある運転手さんがおっしゃっていましたっけ。
私が、30年分の頸椎の戻り痛みを耐えて、ほとんど仕事にならなかった私の、生活の受け皿になったところが、養護施設の送迎バスの添乗員さんでした。
「あなた、体を治さないと、自分の思う仕事に就けないわよ」
いきなり配属された先が、施設から学校の送り迎えでした。施設は、障害が重いとか障害自体は軽いものの家庭の事情などで家族と一緒に過ごせない子供たちが、居住を共にしてます。ここは、障害が重い子たちばかりです。添乗員さんは通常一台一人なのですが、お世話に手間取るため二人体制でした。
このとき同乗したバスの添乗員さんは、たまたま治療家でもありました。私の肩こりと首をすぐに察知して、そんなことをおっしゃっていたのです。
福祉区分か……不思議な受け皿で生きる底打ちを免れてるのかな、と正直感じながら、これも勉強かと、欠員補助要員として、いろんなバスに乗り込んでいました。本当に、いろいろな子供たちをお世話しました。
障害は引け目ではない
良い子もいれば、ずっと悪いこと、例えば、前の女の子の髪の毛を引っ張りたいとか、人のものを取りたいとかなどをずっと考えている困った子もいましたけど。
障害の軽い子供たちは、基本的には、一般の子供たちのように「教育課程」枠にはまりという教育を受けていないので、人間的には自由です。例えば、小さい子や能力が弱い子には、できる子が構えることなく自然と助け船を出してくれます。何かいつも役に立ちたいとか、手伝いたいと思う気持ちを持つ子もいます。
健常者から見て障害というのは、何か欠けがある状態ですが、彼らから見たら、それが当たり前なのです。特に彼らが「僕なんか」とか引け目を感じることなんてないのです。それぞれが愛すべき存在でもあります。
今、健常者の子供たちの方が、こころを病んでいるという感じがします。過度ないじめとか、本来は傷害事件で刑事事件として扱ってもいいようなことを、悪びれもせずにやって、なんとも思わないとも感じているようです。健常者の方が、心に障害を持っているように思います。
障害を持つ子供たちをみていると、この子たちの方が、数倍、人として正しく生きているのではとも、私は感じました。
何しろ彼らは、変に、世情に侵されていないのです。
誰のために聞かせるわけじゃない歌が聞こえてくる
その中で、バスの中が割と静かで、みんなも安心しているときに、静かに歌い出す子が2、3人いました。当然静かな曲なのですが、共通点はハミングで、音量は小さいのだけど良く響きます。とにかく旋律の美しい曲を選び、ただ「美しい」と歌っているように、私には聞こえました。
歌う子の中で一番印象的だったのは、重度の知的障害を持つ中学生の女の子でした。
「この子は私のことを敵だと思っているのよ!」
お母さんがバスまで連れてくるのですが、自分の行動を制限しようとするお母さんを敵だと思っていました。本当に、つかみかかったり、髪の毛を引っ張ったり、暴力的なこともします。言葉を発することができず、叫びます。
何かを掴むと離さず、バスの指定席まで連れていけません。ある日は、バスの乗る時点で手すりに執着して掴んで離さなくなってしまいました。バスに上がりたくないと言うのです。これはあれが使えるかな。私が彼女の気をそらせて、一瞬のスキに手指を手すりから外しました。その様子を見て、お母さんが、
「慣れてる!」と一言。
いえ。人間の脳は一つのことしか意識できませんので、ほかのものがつかみたくなる刺激を……と、そんな御託はいいので、私たち、お母さんを守らねばなりません。
私も運転手さんも、このお母さんに関しては、普通はバスから降りないものを降りてでも、お母さんを守ろうとしていました。わが子に恨まれても、施設に預けるわけでもなく、家でお世話して毎日通ってらっしゃる姿は尊敬に値します。送り迎えをするお母さんの中には、明らかにこころを病んでて、投げやりになってる方もいらっしゃるものです。
この女の子は、暴れる心配があって危険なので、バスの移動中は拘束されます。
でもその彼女が、機嫌が良いときには、ハミングで歌うのです。歌う曲は一曲しかなくて、「あの素晴らしい愛をもう一度」。私が中学校の時の合唱コンクールとかの課題曲で流行ったな~と、しみじみしてしまうのです。学校で教わったのでしょうか。
車中の朝日に照られてる歌っている彼女を見てると、暴れている時の彼女と違いました。とてもリラックスして心地よくしていている感じで、下手をすると、後光が差しているようでもありました。
「美しいもの」の再現って、美しいものを美しいと認識する知力がないとできないと思っているのですが、何か彼女のこころの琴線に、触れるものがあったのでしょう。
「歌う子供たち」の旋律は、まず、無理なくぶれがまったくありませんでした。そして、同時に美しいのです。誰にも聞かせるわけでもない、心のままに歌っている歌がただただ、車内に響いているのでした。
障害が見えなくなる
「子供たちといると、障害が見えなくなるんです。
たとえば、ダウン症の子っていたっけ? とか。
考えたら、あ、いた、みたいな」
このとき、小学校の先生から特別支援学校で派遣で来たという若い女性の先生とお話することがあって、こんなことをおっしゃっていました。
冒頭の施設ではなく、別の地区の施設から学校への送迎バスで送っていた子の担当の先生でした。時々暴れちゃうようなのだけど、バスの中ではどうですか? と聞かれました。彼は、大きい音が苦手でビックリしちゃうので、いつも大きなヘッドホンをつけています。わざと変なことを言うので、みんなにからかわれたりすることがあるけど、良い子でいますよ、と答えました。
「あの子、施設の中では全裸みたいで……」……全裸か……と、私が頭を抱えましたが……(知りたくなかった(笑))。ま、それもみんなが受け入れてるんだったら……、とか。私も、この時期だんだん見えなくなってきたように思うのです。
人の役割は人それぞれで、不足なところには、補う人がいる。補う感性がある。
そうこうするうちに、私の首の痛みも何とか許容範囲になってきて、そうすると、これまで痛みに隠れて現れなかった不具合も見つかり。結局、送迎バスのアルバイトからは離れるのですが、クリエイティブ関連の割と太目のオファーがあったりするという……。
不思議なことに、「修行はここで終わりです。次のステージにどうぞ」みたいな感じにも思えましたね。