古典のすゝめのガイドライン「世にも美しい日本語入門」

2021年3月下旬の新宿駅付近

  • 目次 古典のすゝめのガイドライン「世にも美しい日本語入門」
    • 古典はアイデンティティ構築に役に立つか?
      ・良質な言葉と物語を仕入れたい
    • 古典を読むのは根性がいる 
      • 古典を読むことで変化は……
        ・読書ゼミの学生たちの変化
        ・30代の社会人だった私の変化
    • 古典ベースの思考の構築

古典はアイデンティティ構築に役に立つか?

 すべてのトラブルは、「言語力」の不足によるためという説があります。すべては、自分の中に状況を解説する言葉が足りないのでうまくいかないのでは、というお話なのです。
 このところ思うことあり、ふと、昔使った読書ガイドを開いてみるのでした。
 それは、「世にも美しい日本語入門」という本で、初めてこの本を開いた当時の私の、明確化しなけばならなかった抽象概念といえば、「人生」とはとか、「自分」とはとか、「生き方」はとかそんなものでした……。

藤原 数学でも抽象的なことを考えるときは、いつでも言葉とイメージとの間を行ったり来たり往復運動、振り子運動をするわけです。言葉は考える基地ですから。言葉に戻ってはイメージに行ってという、振り子運動を何度もする。そして、学問の進歩は新しい語彙の獲得と言えるでしょう。 数学に限らず、ほかのすべての学問も同じでしょう。非常に複雑で抽象的な現象を、言語化してやる。これは哲学だろうと、物理学だろうと同じで、全部言語化の作業だと思います。要するに語彙化です。したがって、広い意味では全部言葉の世界と言ってよいのではないでしょうか。

「世にも美しい日本語入門」安野光雅/藤原正彦 著 ちくまプリマ―新書 

良質な言葉と物語を仕入れたい

 12年くらい前、地元にいたころだけど、体がめっぽう壊れていく時期があって、食養生して体を戻していた頃の話です。
 食養生に至るまでのおおよそ20年ほど、思春期に痛めた頸椎に始まった「痛みと病と闘う」というアイデンティティで生きていて、そうにしか「人生のとらえ方」もできない状態でいました。ところが、食養生しているうちに不思議なことが起こったのでした。私のアイディンティティが見事に溶けるように倒壊していきました。
 自分を失うというからといって、自暴自棄になるわけではなかったのですが、体の痛みと体の具合はそのままだけど、ただ、心の中から「痛みと病と闘う」という考えがなくなりました。しかし生きていくのに、何をしたら良いかすら、わからなくなったのです。

あぁ、これは情報がない」
 自分の「行動する」という情報が、圧倒的に不足していて、何か勉強をしたいと感じました。

 そんなとき、本屋でふと手にしたのが「世にも美しい日本語入門」という本でした。
 数学者の藤原正彦さんと画家の安野光雅さんが「美しい日本語」についての対談をされています。読めば、安野さんは、藤原さんの小学校の時の図工の先生だったようなのです。思えばなんて贅沢な図工の先生だったのでしょう。

 画家である先生の本棚と、数学者である私の本棚は、おそらくまったく異なる本で埋められていることだろう。不思議なのは、なのに本書で美しい日本語として双方の用意した例が、ほぼ共通していたことである。必要とする本は全く違っているのに、愛読書は驚くほどよく似ていたことである。
  

「世にも美しい日本語入門」安野光雅/藤原正彦 著 ちくまプリマ―新書 

 ということは、両氏の「愛読書」は何か共通で必要な、大事で不変的なものが混じっているんだろう、と当時の私は感じました。そういうの、良いな。
 ただ、そのころ私はすでに30代半ばにさしかかろうかというの社会人で、古典に触れるのは遅いかもしれないなぁ、と思っていました。

古典を読むのは根性がいる

 安野光雅さんは故郷の島根県津和野に美術館もある画家。藤原正彦さんは著書の「国家の品格」でも有名な数学者です。「世にも美しい日本語入門」は、お二人の対談で進められます。
 おそらく、日本語が好きであれば、誰しもがピンとくる話題がたくさん入っています。

安野 藤原さんは数学者ですが、お茶の水女子大では国語の授業もしているという話をききましたが……。

藤原 大学一年生を相手に読書ゼミをやっています。学生たちがとにかく、あまりにも本を読んでいないのです。いくら偏差値が高くても、それでは獣ならともかく、人間にはなれませんから、本を読ませようと思って始めたんです。もう十年ぐらいになります。主に岩波文庫を毎週一冊ずつ読ませるゼミで、クラスは二十名までと限っています。
 最初からこれを受講するために条件を公表します。まず、一週間に岩波文庫を一冊読むだけの根性。それから、一週間に岩波文庫を一冊買うだけの財力。その二つだけを条件としてあげるんです。これに怖じけない子だけがくる。読む本は私が一方的に決めます。教室では民主主義は存在しません。私が「これを読んでこい」と命令する。

 

「世にも美しい日本語入門」安野光雅/藤原正彦 著 ちくまプリマ―新書 

 読書ゼミには、民主主義が存在しない……(笑)

安野 根性という条件は中でもいいですね。
 

「世にも美しい日本語入門」安野光雅/藤原正彦 著 ちくまプリマ―新書

 ……なんと(笑)。
 しかし、若者が苦手そうな命令形と、むしろ専制君主的な世界……私はその条件にひかれていくのでした。

…それに若い人たちと、同じ本について話せるというのはうらやましい。しかも、藤原さんの独善的なやりかたがいいです。
 いわゆる古典作品なら、すでに淘汰され、評価されてきたのですから、その読書が無駄にならないという保証がついている、と信じられます。文学を読むことを強制しても、まずうらやまれることはないでしょう。私は、古典はいつでも古びない、常に新しいと思っています。
 

「世にも美しい日本語入門」安野光雅/藤原正彦 著 ちくまプリマ―新書

 そうか、古典は新しくもあるのか……。
 私は大学生って年じゃないけど、普通の30代の人と違い、アイデンティティは溶けた状態だから、おそらく「変化」することはできるのではと、自分を測りました。それで、ダメもとで、この藤原さんの読書ゼミの学生と同じように、手に入る岩波文庫を一週間に一冊ずつ買って読むことにしました。
 大事なのは、つべこべ言わず、まず本と手に取りページをめくることです。

 新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『余は如何にして基督教徒となりしか』、岡倉天心『茶の本』、『きけ わたつみのこえ』、宮本常一『忘れられた日本人』……。

古典を読むことで変化は……

 藤原さんの本の中で、学生たちは、次のような変化があると話していました。

読書ゼミの学生たちの変化

藤原 たとえば、「戦前はまっくらくら。大正明治も自由はなく、女性は開放されておらず、ほんとに皆気の毒だった。江戸時代までの庶民は封建制度のもと、皆虐げられていた」という歴史を習ってきていて、現在の自分たちがいちばん賢く、偏見がなく、判断力もあると思っています。ところが、明治の人々の、あるいは大正の、戦前の、また江戸時代末期の本を次々に読むと、たった三か月半くらいの読書ゼミで逆にコンプレックスを持ってしまう。
「私たちほど最低な人間はいない。戦前の人も、明治の人も、明治の人も、私たちよりずっと素晴らしい人格や教養を備えていた。そもそも自分たちは、まともなものを読んでいない」
「特攻隊で出撃する学徒兵は、前の晩に万葉集やニーチェを読んだりしている。田舎に残してきた恋人、父母、弟妹(ていまい)たちに手紙を書いているが素晴らしい文章だ。私たちはこんなものはとても書けない」
「いままでいったいわれわれは、何をならってきたんだろう」
と、考え込んでしまう。もっと本を読まないと、この無知蒙昧のまま人生が終わってしまう、と目覚めてくれます。岩波文庫を十数冊読んでディスカッションするだけです。
(中略)
 たとえば、『忘れられた日本人』を読むだけで、農村も戦前、皆、逞しく生きていた。おばさんたちは田植えをしながらエロ話をしあい、貧困を笑い飛ばしながら快活に生きていた。そういうようなことがわかって、皆びっくりします。
 他にも内村鑑三『代表的日本人』、福沢諭吉『学問のすすめ』『福翁自伝』も定番です。そういう本を読ませるだけで、どんどん変わる。
 

「世にも美しい日本語入門」安野光雅/藤原正彦 著 ちくまプリマ―新書

30代の社会人だった私の変化

 読み進めるうちに、私自身の心にも明らかな変化が見られました。

 うち、宮本常一『忘れられた日本人』は、人の「情念」を理解するには極みの一冊であったなと思います。20代のころ、表現するうえで足りないなと思っていたことがありました。それが「情念」でした。
 藤原さんは冒頭で、下記のように述べています。

 由々しき問題は、若者が美しい日本語、すなわち文学を読まなくなったことである。漢詩や文語などは、美の権化のごときものなのに、中高の教科書には、朗誦暗唱もせぬまま、大人になってしまうことになる。大人になって初めて触れるのではもう遅い。
 美しい日本語に触れないと、美しく繊細な情緒が育たない。恋愛さえもままならない。文学に一切触れず、「好き」と「大好き」くらいの語彙しかない人間は、ケダモノの恋しかできそうもない。愛する、恋する、恋焦がれる、ひそかに慕う、想いを寄せる、ときめく、惚れる、身を焦がす、ほのかに想う、一目惚れ、べた惚れ、片想い、横恋慕、初恋、うたたかの恋……など、様々な語彙を手に入れ始めて恋愛のひだも深くなるのである

 

「世にも美しい日本語入門」安野光雅/藤原正彦 著 ちくまプリマ―新書 

 ……愛する、恋する、恋焦がれる、ひそかに慕う、想いを寄せる、ときめく、惚れる、身を焦がす、ほのかに想う、一目惚れ、べた惚れ、片想い、横恋慕、初恋、うたたかの恋……この語彙は、つまりは、想いとかの感情を表現しているのですが。
 「生きる」「生きてきた」という中にも、厚みも色も感情も思いも信条もあるのだと、一冊ごと読むたびに自分でも表情が変わっていったのを覚えています。

 私はその後上京するのですが、移動中の電車内で若いサラリーマン風の男性が宮本常一の『忘れられた日本人』を読んでいるところに出くわします。若い彼の顔が、非常に深い表情になっているのです。
 ……わかります。私も当時、読んでいるころは、そんな顔をして読んでいたような気がします……。

古典ベースで思考の構築

 生きる軸を、結局、言葉に置き換えたのかもしれない当時の私が、今、生きているというのは……。
 結局、30年かかって痛みをコントロールできるようになり、健康にもなり、ただ自分の肩書が良く分からない状態ですが、まずまず生きております。おそらく、今ここまでの状況は、昔の自分には耐えられなかっただろうと思いますが、人間的には……ケダモノにはなってないと思います。
 そして、やはり本質とか真の部分が見えてこないと、何をやるにも面白くないとは思っていて、そこはひょっとすると、強まっているのでは思います。

 世の中には國語の達人(あえて旧漢字)もありがたいことにいらっしゃいまして、私が語るほどのことでもないのだけど。
 紹介された古典の時代は主に、江戸末期から明治大正で、容赦なく旧漢字と行書体もあり、それを読解しての識字率の高さですから、今より思考体系はおおよそしっかりしているのでは、とも感じますね。

 そういえば、昔は探しても出てこなかったリストの本を購入。開けばやっぱり文の美しさにしばし固まるのでした。

強引にリストアップが現在のAmazonではできちゃうのよね……。
日本人としては、喜んでいいやら、悲しんでいいやら。