- 目次:
- 1・竹村忠孝さんを偲ぶ会
- 2・北原白秋と山田耕筰
- 北原白秋は、「白秋さん」
- 山田耕筰の曲は伴奏も難しい
- 3・山口県ゆかり
- 金子みすゞ
- 山田耕筰の姉と、耕筰の次女日沙さん
- 4・堕ちていく童謡
- 教科書からは排除される流れの童謡
- 100年後への実感がない日本人
- 5・竹村先生との話
- なんで、みんな知らないんですか?
- 偲ぶ会
竹村忠孝さんを偲ぶ会
昨年11月、童謡の研究家である竹村忠孝先生が他界され、先日17日、偲ぶ会が小田原で行われました。
童謡は私は、子供たちが歌ってこそ価値が出てくるものだと思っています。特に生まれた大正時代から、昭和初期までに生まれたのスタンダードな童謡。
日本の美しさとか、情緒とかがそこにはあります。
今の子供たちには、これまでの日本人が、どんな心情なのか、どんな生活だったのかを、辞書を引くタイミングがあり、その後のさまざまな学びにつながります。
北原白秋と山田耕筰
北原白秋は、「白秋さん」
竹村先生からすると、童謡作家で詩人であった北原白秋は、「白秋先生」でなく「白秋さん」。本当に、そのへんで会う友達のように、竹村先生の口からは「白秋さん」の話が聞こえてくるのです。
山田耕筰の継承者でもあった竹村先生からは、私がジャズを歌って不思議に思うことの、楽曲の疑問が逆に解けるともあります。
思えば歌は、最初に「詩がありき」。日本語に限らず、どの言語も一緒です。
山田耕筰の禿げた頭を、白秋さんがペロリとなめ
「これが、良い塩気になるのだ」
と、酒を呑む(笑)。白秋さんは、そんな男だそう。
酒飲みの二人のそんなエピソードを、竹村先生から聞いたと、関係の人がおっしゃいます。
山田耕筰の曲は伴奏も難しい
山田耕筰は東洋で最初にカーネギーで演奏して、成功させた人。
山田家は(北原白秋もそうだけど)キリスト教徒で、五線譜にあらわされるクラッシック譜になじみがありました。
ピアノも優秀なので、山田耕筰の作る童謡は、ピアノ伴奏が演奏者にやさしくないのよ、という話も音楽家から聞きました。
山口県ゆかり
金子みすゞ
竹村先生は実は、私の地元の山口県にゆかりがあり、 長門市先崎出身の金子みすゞの研究が童謡研究の始めでした。彼女の著作権利のお話でも奔走なさったかたでもあります(山口県内の報道でも「金子みすゞの著作の権利はうるさい」とよく聞いていた)。
聞けば、何度も山口県には足を運ばれていて、 奥様も童謡研究は「 金子みすゞ が最初だった」おっしゃっていました。
山田耕筰の姉と、耕筰の次女日沙さん
また、耕筰のお姉の山田恒(恒子)さんは、日本で一番初めに国際結婚をした女性です。結婚相手のエドワード・ガントレットさんは、山口県の秋芳洞を初めて学術調査をした功績があります。
ちなみに、山田耕筰の次女の日沙さんは、山口県下関市で修道女をしておられました。残念ながら、竹村先生が亡くなったあとにすぐ亡くなりました。
竹村先生は山田家継承者でもあったのですが、残念ながら、竹村先生も他界され、なんとも言えない気分になります。
堕ちていく童謡
教科書からは排除される流れの童謡
戦後からの童謡は、自分の権利を主張する、作り手が登場してどんどんとすたれていきます。
チュチェ思想が浸透した日教組が絡んできて、今の音楽の教科書には、最近のポップスしかない状態。教科書に載れば安泰とかいう権利を持つ人がいるんですね。
それは、教育というものとは、はなはだ外れた行為です。しかも、その行為で、本当は自分の首が締まっていっています。
100年後への実感がない日本人
「子供は地域の宝です」
20代、私は市政広報番組にかかわってきて、子育て支援と地域の取り組みについては、このように常に聞かされてきました。「子供は地域の宝です」
今、童謡にかかわっている大人たちは、そんな気持ちが残念ながら見えないようにも思い、私は事あるごとに言うことにしています(特に何をしようというものでもないのですが……)。
すぐに権利を主張して、自分が「左うちわ」で良いようにするような。童謡は過去の資産ではありますが、もうマーケティング的には落ち目で、ひどい言い方をすると「年寄りが死ねば終わり」。マーケット自体も縮小しますので、オワコン(終わったコンテンツ)です。
しかし、戦後教育を受けてきた人は、「自分だけが良い」金儲けから外れることができませんし、それが社会の縮図かな、とも思います。
100年持つものは、100年持つ価値があるから持っているのです。
研究課題にもなっていない童謡を、学術的に大系だてる必要があると、童謡学会が立ち上がってはいるのですが……。
学術的はともかく、大人の歌う童謡に、私は何の魅力を感じないな、と正直なところ思っています。
なぜなら、そこに本当の未来がありません。
竹村先生との話
なんで、みんな知らないんですか?
「なんで、先生。このこと(童謡の発祥)をみんな知らないんですか?」
竹村先生のお話を聞いたのは、2016年の童謡100年プロジェクトのセミナーでした。童謡を多作した北原白秋と山田耕筰の話でした。
そこから、小さい事でも形に残ることをしていきたいのだけど、と先生と何度もお話もしました。最後のお電話では、先生は病室でした。
「良くなって出られるよ」とは、言われていましたが、声の様子から、絶対的な不安を感じました。
同じセミナーには、とある映画プロデューサーが参加しており、2019年1月公開の映画「この道」になります。残念ながら、竹村さんは映画の完成を見ておりません。
とはいえ時間は前に進みます。
偲ぶ会
偲ぶ会では、私は当然、年が一番下くらいです。ただ、「竹村忠孝」という、個人のこれまでの功績が、現れた形となり、様々な方々の思いを感じ取れてほっこりといたしました。
改めて、竹村忠孝先生のご冥福を申し上げます。
天国で、北原白秋と山田耕筰という天才と初対面し、酒でも飲んで、何か力説なさっていることだろうと思います。