SNSのやりとりでふと、日本という土地の捉え方がおおいにずれているのと思います。もっと、日本の治水を知っていた方が良いのでは、と思います。
自分の住んでいる土地のことですから。
今回は日本の水回りのことについて、ざっくりと書いてみました。
- 目次:うちのご先祖さまと治水の話
- 地名に「川」とついているところで、氾濫した水が止まっている
- 治水が認知が低い理由
- 今に生きた、治水の技術
地名に「川」とついているところで、氾濫した水が止まっている
手前味噌だけど、うちのご先祖様は偉いと思っています。
「ただの水飲み百姓」
……と、嫁に来た母は、うちのことを常に言っていたのだけど、私が年を積むことに、ご先祖様のすごさが地味に分かってきました。
最近、にわかに起こる大災害ですが。2018年の西日本の豪雨の被害で、山口県のある実家もの近くも川も上流のダムが放出され氾濫しました。しかし、うちの地域の手間に、地名の中に「川」がついているところがあって、そこで川の水は止まっていました。
風が山の上を吹いている
我が家の位置を、私が最初に不思議に思ったのは、1991年の19号台風の時のことです。
リンゴ台風と称される19号台風が九州の佐世保に上陸したときは940hPa、そこから山口県長門に再上陸します。台風の右側に位置する、私たち瀬戸内側の地域は雨も風もひどかったです。風速40mとかで、木も枝もトタンも、物が横に飛んでいく様を、停電なので何もすることがないから、母と縁側からのんきに見ていました。
ただ、この時の台風本来の風というのは、うちの裏山と向こうの山の上を飛んでいるのが明らかでした。うちは少しだけ柔らかくなった風が来ているようなのです。
今年も台風は来ていたのだけど、風の通り道はわが家でなく、田んぼのある谷の部分で、ほかの家の方は被害にあったようだけど、実家には被害はなかったよう。
「あそこは由緒正しいところよ」
「あそこは、由緒正しいところよ」
最初に、実家がある地域について、明確な情報を教えてくれたのは、私が通っていた短大の女性の助教授先生でした。人文分野、江戸時代の古文書が専門で、すぐに江戸時代の古地図の資料を探して、うちの地域を見せてくれました。山口県は古地図が多く、これは質素倹約な毛利のお殿様が、地域の状況を知るために制作させたとされます。その地図を見ると、まさしく、うちの家がそこにあるのです。
「うち、ここです!」
なんか、うちはただの「水のみ百姓ではなさそうだ」というのを、ここで発掘します。
その後、1000年以上続く村が日本中にはたくさんあることを知り、うちのあたりは1400年くらいたっているようでした。
思えば、うちには出雲大社の神棚と床の神様と台所の神様と三つの神棚があり、裏山に荒神様もあります。出雲大社の神棚には、神主さんが時節に拝みにいらっしゃるというのが当たり前でした。
お墓の方は浄土真宗で、父が結婚する前は二つのお寺の檀家さんだったとか。どのみち今居住している東京では、「日本人らしくない」と、日本人に言われる始末です。
正式に、私の父が何代目なのかは、きちんと調べてなくて分かりませんが、その地区の集合墓地では上から数えて3つか4つ目くらいです。すぐ下手のお宅の墓が33代目だと、墓が言っていました。実家の隣の一族の墓は、はるか下手の方……。
ちなみに余談ですが、日本で南北朝時代( 1336年~1392年 )で南北で分かれてから続いているお宅が、だいたい700年くらいで19代目とかそれくらいです。表舞台から追いやられた血統の方々が、先祖伝来の処世術や哲学などを伝え、明治期くらいに日本をしょって立つ人材が輩出するみたいですね。
うちの地域の場合、間違いなくドラマティックな争いなどないので流されるままです(遠い目)。ときどき、あっていいかな、とか思っています。ただ、生活の上で、日々努力はするが「無理に頑張んない」っていうのは、持続する経営には重要だと思うのです。
頑張らなくて良いところに立地しているから、生活が続く
ところで、かれこれ5年くらい前から英語を見てもらっている先生(40代前半)が九州の田舎育ちで、田舎の池で小さいころ魚を摂って食べたと(笑)
「藤田さんも、田舎だから同じことやってると思って。……!」
と、言われたのですが、残念ながら、うちの実家ではない(笑)!
うちの地区は治水も古く、水の都合が自然合わせなんです。もともとある流れを生かして田んぼを作るので、あまり、水源を都合しようという跡がないんですよね。ちなみに、井戸も30mぐらい掘ると水脈に当たります。
開墾した地域は、田んぼを作るため、遠くから水源をどうにかするのです。立派な池とか作るんです。ものすごく、人の力と知恵がいる事業です。この事業というのが、だんだんと広がっていくんですよね。
治水が認知が低い理由
いろいろと、我が家とうちの周りがの事が気になり、田んぼの事を調べまくっていた時期がありました。そこで、出会ったのが、富山和子先生。
2019年10月現在、台風19号に、余裕がある地域の人はぜひ一読して欲しい書が、45年前の初版だった富山和子氏の「水と緑と土」。
天から降ってくる大雨や風は避けられませんが、受ける土地の作り方の理解があれば救える被害もあっただろう、と、私は思ったのです。
しかし、それにしても、江戸時代まで私たちのご先祖様がやってきた治水の認知が低いと思いました。
P14
堤防という人口の建築物に一切の安全を託し、川と川以外の土地とを明確に隔てるこの高水工事の方式は、一方では土地の高度利用をはかり、他方では人間に不要な水---洪水を水にゆだねて処理させる、いわば土地利用の分業化を図った解決方法であった。
この方式が持つ思想とは、浸水を絶対に許すまいとする完璧さであり、洪水は水がいっさい処理すべきものとする思想であった。そのためにも、洪水を川に押し込め、一刻も早く海へ押し出してしまう事が工事の目的とされた。明治二十九年の河川法制定以来今日まで、日本の川を営々と支配してきたのがこの高水工事であった。
これに対して、それ以前にとられていた方法が低水工事である。低水工事は農業用水の確保と下流部の舟運とを主目的にし、河道を固定して流量の安定に最大の配慮がはらわれる。洪水については、中小の洪水は処理するが大洪水はあらかじめ氾濫を予定している。高水工事が堤防を連続させるのに対し、低水工事は水害防備林や霞堤、乗越提などを中心にすえ、大洪水はかえって氾濫し、むしろ洪水の力を弱めることが考慮された。前者が洪水を「押し込める」方法であるならば、後者は洪水を「なだめる」方式であった。(略)大陸の大河のように、数ヵ国をゆうゆうと流れようやく海へ注ぎ込む川にくらべるなら、日本の川は「流れる」というよりも洪水が走り落ちる急流で、豪雨はたちまち鉄砲水となって下流を襲う。けれどもそのような急流であってさえ、川はそれなりにせいいっぱいの流量調節機能をたずさえているものであった。
「水と緑と土―伝統を捨てた社会の行方」 富山 和子著 中央公論新社
SNSのやりとりで、日本という土地の捉え方がおおいにずれているのでは、と思います。
ふと、この著書で確かめると、明治29年に「昔の治水は忘れます」と言っているとも考えていいので、そこから教育が失われていると言っても過言ではないのではと感じます。それまでの知恵が「時代遅れだ」とばかりに扱われたのでしょう。
はっきりいって、いきさつを知らないと知っているのでは、これから大きな自然災害が起き続ける場合、生死を分かつと感じます。
流量の安定に最大の配慮が置かれる低水工事は、この川の自然の機能を認め、それを助けようとするものであった。しかし、洪水を一刻早く海へ押し出せとする高水工事の目的からするなら、そのような自然の機能は不要であり、曲がりくねった河道や川原の森林などはむしろ障害でさえあった。明治後期から昭和二十年代まで続けられた森林治水事業(現在の治山事業)の歴史を振り買ってみても、たとえば洪水時の出水を一時貯溜するため、上流の水源地帯に天然の地形を利用して遊水林を設けようとしたところ、河川当局から厳しく拝斥されている。さらにまた河川敷内の水害防備林も、高水工事の目的に反するとの理由からもってのほかとして認められず、堤防に木を植えることさえ禁じられた(武藤博忠・若江則忠「治山行政の進展」、日本治山治水協会「治山事業五十年史」所収)。そこには自然の機能への徹底した不信感、逆にいえば人間の技術に対する絶大な信頼が見られる。
「水と緑と土―伝統を捨てた社会の行方」 富山 和子著 中央公論新社
今に生きた、治水の技術
その昔の治水が生きているのも、この度の災害では出てきています。
山梨県、信玄堤で守られているところだけ特別警報が出てないの信玄公すごすぎない、、、?ってなってる pic.twitter.com/Sx8WpSAIXQ
— 藤堂和幸/隊長@Gaiax人事/りっぴーたー (@frecce) October 12, 2019
今から15年ほど前、国交省甲府土木事務所の仕事で、信玄堤調査プロジェクトに参加。その時、旧竜王村(信玄堤直下)の古老たちに話を聞いたことがある。彼らは、かの昭和34年8月台風による大水害、9月の伊勢湾台風を経験。ともに、信玄堤はびくともしなかったと誇らしげに体験談を語ってくれた。 https://t.co/8149NVqPK7
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) October 13, 2019
何か、私はこのツイートを見て、昔の人のやってきた治水というレベルの高さを感じました。
「川は生きている」は前述の富山先生の著作。
子供向けに書かれていますので、分かりやすく、図書館にも置かれています。
是非、日本で行われた治水技術を知っておいた方が良いと感じます。
武田信玄と、加藤清正のお話。
むかしの日本人の川とのつきあいかたは、いまとはまったくちがいました。ひとくちでいえば、「ふった雨を土に返そう。」としたのです。
山梨県をながれる釜無川(富士川の上流)は、名だたるあばれ川です。そのため借るうの甲府盆地は、いつも水におびやかされていました。
そこで信玄は釜無川に、かすみ堤という堤をきずきました。かすみ堤とは、大雨の時には、洪水がぎゃくにながれて、川の外へあふれ出るよう、とぎれとぎれに堤をきずいていくものです。あふれた水は土にしみこみ、あるいは底にたまって、しばらくあそんでいます。やがて川の水が引くと、じょじょに川へ戻される仕組みです。このように、ふった雨をできるだけ土に返し、あるいは土にとどめて、水が一度にどっと下流へ突っ走らないように、くふうしたのです。信玄はこうして釜無川の水をおさめ、甲府盆地を水害から守りました。
清正は考えたのは、越流堤というものでした。これは、堤の一部をとくいひくくしておきます。川の水かさがましてくると、そこから水があふれ出るしくみです。清正はこの方法で、菊池川・白川など、九州の川でうでをふるいました。城下町、熊本市の基礎がつくられたのも、清正の治水のおかげでした。
「川は生きている」富山 和子 大庭 賢哉 著
またこちらでも。
八ツ場ダムが脚光浴びてますが、今回の台風で超活躍した人工調水施設の1つが、新潟県・信濃川の大河津分水路(赤丸)。信濃川本流の水を可動堰によって分流し、水を日本海に捨てています。中流は氾濫危険水位(黄色)なのに、下流域の水位は保たれている(青色)。 pic.twitter.com/OdUK68i2tC
— 雪蛉 (@inst_bio_dgf) October 13, 2019
江戸については、また、レベルが違いますが。
私自身はまだ全く知識が繋がってないので偉そうなことは言えないんですが、東京の治水に関してはたぶん徳川家康の「利根川東遷事業」がキーなので、みんなもチェックしておこうぜ!
— 岡田龍太郎/クーロン (@suck_a_sage) October 13, 2019
水防・治水の歴史 | 利根川下流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局 https://t.co/hkL4MLhCLu pic.twitter.com/jNAyUjAaqi
ひとくちに「水をあふれさせる。」といっても、洪水のいきおいは、ものすごいものです。洪水で、ほんとうにおそろしいものは、たくさんの水がやってくるということではないでしょうか。こわいのは、もうれつないきおいで突進してくる、その水のいきおいです。水はたいへんな破壊力をもっています。そして、もう一つおそろしいのは、水とともにながれてくる土砂です。
「川は生きている」富山 和子 大庭 賢哉 著
あなたは、川原に石がごろごろところがっている川を見たことがあるでしょう。中には何トンも、何十トンもあるような大石が、どっかりとすわっている川もありますね。そんな川を見たら、「これはあばれ川だなあ。」と考えて、上流のやまのようすを思い浮かべて見てください。
ダムをつくったり、堤防を作ったりするのは、ヨーロッパの技術です。
明治初期、昔のヨーロッパから来た技師は、日本の地形には驚いていました。何しろ国をまたぐ河川というのが、彼らの「川」という認識で、日本だと距離は三分の一程度で、山から流れてくるので……。
むかし、ある外国人が日本の川を見て、おどろいていいました。
「川は生きている」富山 和子 大庭 賢哉 著
「これは川ではない、滝だ。」と。
この滝に、大雨が狙ってくるのですから、結果は2019年現在、起こっていることになります。
これから、流れ的には東京は、もう危険水域内に人が多すぎるので、日本だろうが西洋だろうが、すべての技術を集めるしか手がないとは思います。
地方については、住むところの工夫、地形に合わせたやり方というのは、できるのではないかとも感じます。