- 目次:一般食を捨てたワケ・05|胸の形が変わっている……“何か”に捕まった
- 1.身体状況 2006年
- 何かが始まって、かつトラブルが多い年
- 両胸の形が変わっている。大きな乳腺炎
- 内外共に、トラブルもイベントも目白押し
- 2.周辺状況 2007年、夏
- 父との最期の小旅行と、癌の発見・手術
- 3.身体状況 2007年、夏~晩秋
- あなたの欲しいものは、「火事場のバカ力でしょ?」
- 「この体は、あと10年持たないかも」
- 打つ手がない。動脈瘤?
- 4.鍼灸を考える
- 鍼灸で癌のようなものを対処できるのか
- 灸治療の成功確率は、良くなると信じること
- 5.実施状況 2007年、冬
- 生まれて初めて、神に祈った
- 細胞は3ヶ月で入れ替わる、ならば……
1.身体状況 2006年
何かが始まって、かつトラブルが多い年
32くらいの時、中1からの頚椎を痛めて以降、懸念の背骨がやっと大まかに固定してきた実感がありました。頑張ってもそれまでは、力が入らなかった感じがしていました(上京後、さらにまっすぐなるのですが……)。 ちょっとだけまっすぐに立ってる感じがとっても嬉しかったのです。
そして、人生の流れを何でも良いから良い方向に変えたいとも思っていました。……かといって、どの方向に行くか見えません。仕方なく、興味のあることを、ひとつづつやっていきました。
仕事以外の絵を描く。自室に電子ピアノも買って、好きな曲の譜面を見て弾き始めたりしていました(エレクトーンは中1くらいまで続けていた)。セッションに出てジャズを歌い、キープボトルならぬキープギターのあるお店でも歌い、作詞もやってみました。
両胸の形が変わっている。大きな乳腺炎
あるとき、風呂場の鏡でアレ? と気づきました。通常丸いはずの胸が、三角形になっているました。……うーん……。
病院には行く気にもならず、異常に気がついてからお灸の先生に見てもらいました。結果、乳腺炎だとのこと。乳腺炎ってたしか母親が40代の時にかかった病気じゃないかな、とも思いました。かかんに先生が治してらした。しかし、子供も産んでないのに……。
「このまま病院に行くと、両胸切除になるよ。3cm以上の乳腺炎は癌とされてしまうから。」
……そんな感じはしたんです。
胸のしこり。 神経が喉の辺りまで繋がってて、扁桃腺の熱みたいな 感じになってるよう…。
2006年10月16日 mixi日記
乳腺炎。両胸。結構でかかったなぁ…。 母も伯母もやったなぁ…。てとで、灸治療。 痕が残るのはもう20年前にあきらめたことだけど、 さすがに今回は、凹む。
そしてイラスト明日まで(w。 これに間に合ってよかったかな。
本厄で、一気に体質が変わりつつあるんだろうなぁ。
出てくる病気が、 母親の40代とかに出た病気に移行しつつある。
この灸は体の芯までしみわたって、翌日は、あったかさと不自然な冷たさが両方同時に感じられて、不思議な感覚でした。局の営業の皆さんと久しぶりにココイチでカレーを食べ、みんなは汗だくだったのに私だけ汗をかいていません。
「はるちゃん、汗かかないね」
「ですね!」
……笑うしかないですが。
2006年旅行代理店販促用 2007年 新聞挿絵
職場のみなさんに日頃のご愛顧
的なバレンタイン…
↑ やってみたかったお返しが机半分を埋める…
↑ お返しがすごかった
内外共に、トラブルもイベントも目白押し
本厄と後厄と実家を離れて一番、トラブルが多い時期でもありました。
ちょっと料理に目覚めたら使った油が思いのほか古くて肝臓を傷めました。続いて腎臓がおかしくなりました。 肝臓と腎臓は、主に解毒担当でそこが本調子でないため、顔の吹き出物がもともとひどかったのですが、平たいところがないくらい吹き出ていて、顔が痛くて……。そうすると当然、鏡で自分の顔を見るのが嫌でした。
腎臓と肝臓は共に、寝てないと回復しないタイプの臓器で、正直なところあっさり入院して療養してますという方が良いなぁ……と、ありたがくタイトル室のソファでひっくり返りながら思っていました。
当然のように、機材を持って外に出る仕事は入ってきているのですが、やっぱり「ままよ」と出ていました。
正直、黄疸が出てたので数値が出てる感じなんだけど、灸の先生が猛烈に治すので、後日病院に行って血液検査をしても、ありがたいことに数値が出ない訳で。そうすると、まず堂々と休めないワケで……(笑)、編集室とテロップを作るタイトル室を這うようにしていったり来たりするわというような感じで……。
それでも、朝起きて鏡をみれば、目の白い部分が真っ赤になっていて、近くの癌化に行ってみれば眼底出血。たしかに体もおかしいかもと、お灸の先生に診てもらうと、腹下に動脈痙攣も……。子宮痙攣も。黄砂に合わせて急性気管支炎もこの時期。
とにかく体はもう、目いっぱいだったんでしょう。
見てみたかった
仕事では、同時に短尺ながら半分エンタメみたいな演出もの。キャラクターの中の人になりながら、ディレクターという立ち位置に変更し、人形に魂を入れるディレクションを開始するというお役目を頂戴しました。
「いろいろ言われると思うけど、頑張って」
と、当時の報道デスク氏から一言。
わりとざっくり投げ込んでくるのを、チクチクと作り上げてストライクゾーンと思しきところに打ち込んでいく仕事が進んでいきました。
気が付けば、風邪を引くことも多くなり貧血がひどくなり、3カ月間喉を斬るほど咳が続いたりしました。
咳で歌えないから、ジャズのジャムセッションにも出ていかず、変わりにピアノを弾いていて、「歌心ってそんなものか」とも感じました。
物理的にもいろいろあって、停車中に追突されるという事故もしました。相手は保険に入っていない20代の若者だったとか……。この件は、ディーラーの店長さんにななんとかしてもらいました。人の手をありがたく借りながら生きていました。
3.周辺状況 2007年、夏
父との最期の小旅行と、癌の発見・手術
「津和野に行きたいんだ…」
ゴールデンウィークのお休みで実家に帰っていました。父が珍しくそう言うので、母と私と三人で出かけました。津和野のお稲荷さんには、「昔は良く行ったね」と、祖母は乗り物が苦手だったてけど、一緒にお参りをしたこともありました。
また、絵の勉強もかねて「安野光雅美術館」へ。絵本から絵画まで、和風からヨーロッパ風まで多彩な絵で心が満たされました。津和野を歩くのも楽しかった。
しかしその帰り、愛車のフォレスターを運転する父がとても辛そうなことに気がつきました。運転がとてもふらふらするし、会話のやり取りがおかしいのです。
「お父さん、私が運転する」
帰りは私が途中から運転して帰りました。その時、「大丈夫か」とバックミラーで確認した父はとてもホッとしていてなんだか嬉しそうでした。
その翌月、ステージ4の癌が見つかりました。原発は直腸癌で、肝臓と肺に転移。癌は臓器によって性格が違うので、どこが「原発」なのかが重要です。あの時のやりとりがおかしかったのは、おそらく癌のせいでしょう……。
父は、住まいを気遣うセンスがなく、まだトイレが水洗でなく、これが良い方に転じ母が父の排泄物に異常があるのに気づき、父の体臭がひどいと近くの医院に連れていくとそのまま入院となりました。最終的に田植えを終えるまで粘ってから病院に検査に行きました。今思うとどんなに体が辛い状態で苗を植えたんだとも思いますが、「植えきるまで」と本能に従っていたんだろうと、と思います。
手術で取り除けるのは直腸癌のみということで、懸念だった人工肛門にならずに済むとのこと。あとは、抗がん剤投与で対処する、ということでした。転移先の肺などレントゲン写真でバラバラに何か所もあり、取り除くなんて不可能だとすぐに分かりました。
「東京にはエメラルドマウンテンしかない」
私は、このとき父に対して殺意を覚えました。さんざん周りに圧力をかけたあげく癌という面倒な病気になるのかと。自分の心の動きにも驚きました。そして、「殺意」というのは、こういう心の動きなのだとも……。
入院前、東京にいた弟が帰ってきて、二人で「どうしたもんか」と、ビール片手にクダを巻きました。ただ、姉弟の存在ってありがたいものだな、としみじみ思いました。
手術は、昼間に行われました。弟が確か帰っていたので、何も手伝えることはないし、私は仕事に出ていていました。しかし、周りの「帰れ」という目に見えないプレッシャーがかかり、父の手術に向かいます。
術後、これが父の癌ですと、医師に手術で切り取った癌を見せてもらいました。腸内の小さいものもいくらか取ったそうです。癌は、白い脂肪に包まれていました。「これか……」と、言葉がありませんでした。
くしくもその手術の月に2019年現在(460回を迎えました)まで続く「ふるさとのわらべ唄」新聞連載がスタートします。
3.身体状況 2007年、夏~晩秋
あなたの欲しいものは、「火事場のバカ力でしょ?」
四葉の株
父のショックもあり、新しい連載も始まって生活のリズムが崩れたというのもあり、意気消沈していました。そしてまた、変な緊張感が出始めてまずいな、と思いました。
私の強いところは、みんなが嫌がるところには、すでに出入りしていると言うところです。禁忌な所とかでも、大したプレッシャーはありません。あっさり再び精神科を頼ることにしました。
さすがに病院といっても前に鬱薬を突然断ったところには、距離的にも行けないなと思って、どこか軽めに調べられるところがないか探しました。
欲を言うなら、もうちょっと「私」に近い医師がいるところが良いなと。そう思ったのは、医師は国家資格で安定的で、私は資格や学歴など一切持っていない腕一本なので、元々不安定でそもそも相容れないものがある、と思っていたからです。
それでもさらっと調べると、近所に、S社から本を出している精神科医が自宅から車で5分くらいのところにいました。メンタルヘルスとか聞こえの良い横文字で小ぎれいな部屋でなく、病院は古い雑居ビルの一室なのが私にはちょうど良い感じでした。
著作を拝見すると、帯に東京大学名誉教授の養老孟司さんの推薦文がありました……。よくよく聞くと、本を出した後に出版社とケンカして、絶縁したとのことでした。
診察の時に、一言言われます。
「今、あなたの欲しいのは、火事場のバカ力ですね」
……ビンゴです。
検査結果は脱水症状による鬱症状ということで、点滴と軽い鬱の薬をいただきました。そのあと2回くらい経過を確認するために行ったくらいで、もう行かなくなりました。
この時期、ちょっと意気消沈していた私を、友達が連れ出したりしてくれました。
本日は、地元から年上のお友達が来て、買いまわり。
2007年07月16日
彫金のステージ4の胃がん持ちの友達の知人、職人さんの展示即売もあったのでそちらへも。もう胃がんを発症して12年らしい。彼は、病院に行かず(手術なし、胃酸過多の薬のみ処方)、食事療法で生きている。4、5年に一度、調子が悪い時期があるので、本日は来店されていなかった。「オーリング」という方法で、クスリの良し悪し、 食材の良し悪し、病状の良し悪しを探しているようだ。
世の中、病気でもいろんな人がいるんだな、と思って気分が緩んでお買い物しました。
「この体は、あと10年持たないかも」
「嫁に行くかも」と、灸の打つのを控えていた先生が、このごろ容赦なく本気で灸を打ちにかかっているのが分かりました。昔にもどり、治療痕は増えていく一方でした。
乳腺炎は1年に一回、6ヶ月と、期間が狭まっていました。これまでと違う、何かが起こっているなというのは、自分で分かっていました。
「後、10年も持たないかも知れない、この体は…」
と、先生が真剣に言いました。
クリスマス時期には、新聞社のビルの1Fに、大きな影絵を作っていましたが、6年目で、その年で最後でした。体力的にも、何も考えらえず、作業を終えました。
全部、手作業だったと
お客さんは思っていないようでした地道にこつこつ 朝作業に入るのは
一杯のコーヒーから
打つ手がない。動脈瘤?
絵の作業が落ち着いて、もう一度乳腺炎、経過の確認と、これまでの悪かった箇所を確認してもらいました。先生の顔色が、腹を触っていくうちに、変わったのが分かりました。
「……これは、まずい。お父さん以上の手術になるよ…」
左下腹に動脈瘤があるようです。サイズはゴルフボール大。
「やれなくはないんだが……」
若干、先生は躊躇したように見えました。難しい灸であるのと、おそらく成功するか分からない感じなのが伝わってきました。が、私はお願いします。
「……やってください…」
即座に灸を打つことになります。
……後10年どころか、つぶれていれば、即死か……。
どうすることもできない自分の体に、私は、溜息すらつけませんでした。
4.鍼灸を考える
鍼灸で癌のようなものを対処できるのか
鍼灸で癌が散らせるんですか? という話もあるんですが、そこは治療家の力と、癌そのものの病態によって、違うようです。
ちなみに、私が小学生のころ、ミニバスケットをやっていてシューズが合わなくて膝を痛めた事があって、そこから盲目の鍼の先生にお世話になっていました。
膝だけでなくて、私は弱視でしたから、目の疲れの軽減にと、鍼を打ってくれました。大変、腕の良い先生だったと、子供心に思っていました。なぜなら、先生の鍼には迷いがなかったからです。
その先生は、ご自身の癌を自分で散らしていました。しかしその後、亡くなりました。この鍼の先生が亡くなった後、鍼がとても良かったので、母に別の先生に連れて行ってもらったのですが、その健常の先生は、鍼に迷いがありすぎて効果が期待できないと思い、1度でやめました。
灸治療の成功確率は、良くなると信じること
お灸の先生の治療の確率を上げる手を、昔からよく知っていました。それは「良くなると150%信じること」。先生自身も、灸を信じる人と信じない人とで、良くなる結果が全然違うとおっしゃっていました。この時も、私は、良くなると信じて疑いませんでした。先生にしてみれば、かなり困難なお灸だったと思います。
治療が終わると、くたびれて二人とも一眠りしました。
この時、さすがにCTとか撮っていないので動脈瘤がどうであったかは分かりません。しかし、治療直後に左下腹が確実に温かくなっていきました。熱い血が確かに正しく足に向かって流れ始めたのを感じ取りました。
「もう、うつ手がない」
と、先生は一言そうおっしゃいました。
そうだね先生。多分、私の体は、後10年とかじゃない。
5.実施状況 2007年、冬
生まれて初めて、神に祈った
…そうだな、背骨がどうにか一般的になるまでに20年待った。
昔は硬くて仕方なかった(描)線一本を矯正するのに、要した時間はやっぱり10年(休憩時間は長いからもっと短期間で済んだかもしれない)。
mixi日記より
仕事関係の人に「基本は変わってないけれど、メジャー感が出た」とのメールがあってちょっとうれしかった。
映像編集も、本気でやり始めて9年目(これは休憩時間があまりない)。 このごろやっと、文章を書く様に絵がつなげられるようになった。
やってきたデータをぼそぼそと振り返った。……。 ……これで終わりか。まだ、世の中に向けて何もしてない。 冷たいアパートでひっくり返って静かに考えました。 私が体をきちんと扱えなかった、そもそも私が悪いのだけど。
……無神論者だったけど、次に出た言葉はこれでした。
「神様、お願いだから、もう少し待ってくれ。この先が面白そうなんだ」
生まれて初めて、神に祈りました。
細胞は3ヶ月で入れ替わる、ならば……
灸の先生の治療の時は初めから、「このお灸をしたら、3ヶ月、それから半年待って。 そしたら細胞が入れ替わるから」と呪文のように言われ続けていました。
実際のところ、本当にそうで、それで私は、ザッと20年ほどちょっとずつ良くなるのを待っていたのでした。でも、先生のやり方では、もう私の体を支えるのは不可能だというのです。
私は考えます。……人の体は、そもそも、食べる物でできているのだけど……。……食べる事で、全部作り替えられないのだろうか…。
私が食べたがっていたのは、本屋で見つけた簡単なマクロビオティックの本………あれには、体質に合わせた食事ができると書いてありました。
試してみるか……。