穀菜食|一般食を捨てたワケ・04|本屋でつかんだそれが……


  • 目次:食を捨てたワケ・04|本屋でつかんだそれが……
      
  • 1.周辺状況 2005年、一人暮らし
    • 人の輪に入りたい、かつ『孤独』になりたい
    • たぶん、「母の盾」の役目は終わった
    • 『死にに行かせたのか!』と両親が叱られる
  • 2.周辺状況 勤務と生活
    • 配属先にて……「どこまでやるんですか」
    • 「あの人はいつも笑っている」
    • 一人暮らしは七転八倒
  • 3.身体状況 2006年、冬
    • パニック障害、戻る「何を買っていいのか分からない」
    • 本屋には、すべてある
    • 朝起きると、体が冷えている

       

1.周辺状況 2005年、一人暮らし

人の輪に入りたい、かつ『孤独』になりたい

2005年 一人暮らし

 軽く「鬱病」と名付けられて、投薬を一年。そして、薬から離脱した半年後。
 一度、どこかの団体に所属しようと思いました。なぜなら、あまりにも行動が一人だったからです。(正確には、一人ではなかったのだけど、という、自分とも他人ともコミュニケーション不全だったと今では思います)フリーのプレッシャーに体が耐えきれないなと思いました。そして、物を作り上げるために、完全な孤独を求めていました。
……かたや、社会的には人を求め、かたや人を遮断するという、両極端でしたけどね。
 報道で局が持ってる大きなカメラをENGカメラと言いますが、それを扱うような現場に……はせ参じます。

たぶん、「母の盾」の役目は終わった

 この就職の前、痴呆症だった祖母が90歳で亡くなりました。
 面接先の会社から電話があったのは、火葬場にいる所で、東京からちょうど人事部長が来ていて「明日の予定はいかがですか?」とのことでした。難しければもう一泊するとのことで、「それは申し訳ないと」結局葬儀の翌日が面接になり、その日は31歳の誕生日で、かつ、その翌週には採用が決まっていました。
 人事部長とは1時間、直属の部長は二三言という、思えば不思議な面接でした。

一人暮らし用に母が見つけてきた
マグカップ

 亡くなった祖母は農家の末っ子で、大正3年3月9日生まれ。「さんざん苦しんだ」なんて母が揶揄していましたが、お嬢育ちの母方の祖母と違い、父方の祖母は教養を持ち合わすとは良いがたい人物でした。男勝りで、性格的な面での女性の部分を探すほうが、孫の私でも難しい。ただ、体は本当に丈夫で、常に畑仕事をしていないと気が済みません。夏、一瞬で熱射病になりそうな暑い日でも、曲がった背中で畑に出ました。そして、なにか気に入らないことがあると、突然怒り始めます(笑)。

 そんな祖母に育てられた父も見栄っ張りな頑固者です。
 そういえば、祖母が亡くなる直前、 飼っていたワンコの妊娠が分かったのですが、父がワンコを処分してしまいました。保健所の人に引き取ってもらいました。情けないことに私も母も動けないときで、父の「処分する」行動だけが迅速。実はこれ、二度目なのです。前の理由は「吠える声がうるさいから」。母と私は気落ちしました。
 しかし、振り返ってみれば、当時の父は、自分の母が死を迎えるのに対して、耐えがたい動揺もあったのではと思います。

 私が子供のころの夕飯時といえば、当然のように母と祖母と父とが大喧嘩するのが日常でした。あまり、心穏やかに食事をとった覚えがありません。

「晴江(私の戸籍名称)の左目は、義眼か?」
 一緒に住んでいるのに、母にはそんなことを言っていたようです。事実、小学校頃の、私の左目は神経がつながっていなかったようで、右目の動きと連動できなかったんです。
 これも、その後、高校生になったときに灸の先生に治療してもらって、つなげてもらうのですけど。その時に初めて、立体というものがどういうものなのか体感しました。(この体感が、おそらくその後の美術の静物デッサンで物をとらえることにつながったと思います)

 祖母は最終的には痴呆の症状が出て、「世話の仕方」が分からないと、母は介護ヘルパーの資格を取りにいきました。今の母は、この時の取得した資格で介護職もしていますから、「『老老介護』よ」と言いながらですが……。人生は進んでみないと、分からないものだと。

 そんなこんなで、祖母が亡くなったので、おそらく私は「母の精神的な盾」替わりの役が終わったかのようでした。それまで一度も家から出て長く住む縁もなかったのに、祖母の死後、20日後には家を出て一人暮らしとなりました。

『死にに行かせたのか!』と両親が叱られる

 実家に簡単に帰れる距離感で、それでも、一人で暮らして働きたい。そう思って就職したのは局の中にあるプロダクションでした。

 私自身は、約20年かけて背骨が落ち着いた実感があったので、ある程度のトラブルは承知で、なんとかなるだろうと一人暮らしを決めました。体に限界が来たら、即座に対応できるように、実家までは車で帰れる距離感でした。
 当時の私の体の状態を知っていたのは、間違いなくお灸の先生だったと思います。私を送り出した両親に「死にに行かせたのか!」と怒涛のように怒ったそうです。
 今では、先生のその気持ちも、良く分かります。先生の灸でしか、当時は本当に、私の体は持たなかったからです。

2.周辺状況 勤務と生活

配属先にて……「どこまでやるんですか」と、呆れられる

 会社ではディレクターとして配属でしたが、番組作りのソフトだけでは所属するプロダクションの財務を支えることができないようでしたので、重い機材を担ぎ出ていくのも仕方ないかな、と思いました。

 そして、脳はやられているので、企画まで浮かばない(笑)。
「重いものはちょっと無理です」とは、一応面接時に言ったものも、誰も私がグレーゾーンの障害を持つなんて分かりませんし、当然、薬による脳欠損なども100%理解もされませんから。本当に分からなかったと思います。しかも、機材を持って出るのは、毎日でなくて月に何度かでしたので、「ままよ」と本当にやってしまってましたからね。

パブリシティ番組で
某キャラが来局

 中途採用の私は、会社に入ると上の方くらいの年齢になっていました。私に、技術を教えてくれるのは年下の先輩方だったり、キー局経験者のベテランの技術だったりしました。

 カメラの色温度を覚え、音声ミックスのバランスを体感で覚え、VTRの放送基準を叩き込み、頭で考えては溢れてしまう情報量を体細胞に叩き込みました。技術が身についてしまえば、考える頭の場所が増えると思っていました。

 同じ時に入社した23歳の若い人がいたのですが、一年後の差は歴然としていて、年下の先輩たちには「あの差はなんなんだ」と、言われていたみたいですね。「どこまでやるんですか?」とも、アナウンサーの女の子が呆れていました。

「あの人はいつも笑っている」

2005年「医食同源」新聞挿絵

 「どこでもやるんだ」とは、新聞挿絵もですが、そのまま続いていました。普通「副業禁止」な訳ですが、「家業的に」新聞挿絵は引き続きやりますと宣言してその会社に入っていました。いちいち全県版の新聞に名前がでるので、見方によっては「会社にケンカを売っとんのかい」ということにもなります(笑)。

 局の人たちは 「あの人はいつも笑っている」なんて、言ってたみたいです。

 理由の一つは、みんなの中に入ってごちゃごちゃやってると楽しかったので笑顔だったというのと、笑っていれば体と頭のことはごまかせる、この半々でした。気が付いたら、911で起こった「自分の中の怒り」が癒されてなくなっていました。
 私の体は案の定トラブルが起こり、これ以上ずれると半身不随で腰骨がずれてたりしていました(笑)。ただ、お灸の先生は「嫁に行く予定があるかもしれないから」と次第に灸を新しく打つのを控えるようになしました。

一人暮らしは七転八倒

「なんで、そんなに一人暮らしが下手なの?」
 一人暮らしの私の家に、たまたま来た友人が、私の当時の家事のやり方を見てそう言いました。何しろ初めてですから。
「そっか、初めてなんだ!」
 と、納得の友人だったのですが。

 お料理は、疲れていなかったら頑張ったけど、そこまで真剣でなく、徒歩圏内の長崎ちゃんぽんでラーメン・餃子セットとか、山口県ではメジャーなうどん屋「どんどん」のかつ丼セットとか、山口市のB級グルメの王様「バリそば」もたまに。絵の仕事も相変わらず細々と続いていました。

 ちょうど局では、アナログ放送からデジタル放送の切り替え時期で、旧サブでは、狂った機械は叩いて直すという、昭和の家電的荒治療を見るという貴重な体験をしましたけど……。

某所旧サブ最終日。みんなが好き勝手落書きしている。
現場で一服

 ある時たまたま、外のロケの音声さんでくっついていった現場のレポーターが、CATVでずっと一緒にやってた彼女でした。ふと彼女が、私の首にぶら下げてるIDカードを注視し、手にして言うのです。


……不自由そう」

……いやいや、言わなかったけど、事情が……。

3.身体状況 2006年冬

パニック障害戻る「何を買っていいのか分からない」

時々、根城になっていた編集室

 入社して1年が過ぎたころ、一人暮らしと仕事のプレッシャーからか、どんどん鬱の症状を思いだすようになります。

 近所のスーパーの、惣菜売り場はバラエティー豊かでいろんなものを選ぶことができて楽しいです。ただ、味は同じ気がして飽きもします。困った時には利用していました。
 でも、ある時、何を買っていいのか、分からなくなってしまいました。独特の緊張感も戻ってきます。久しぶりに、パニック障害が顔を出したのです。私は自分の食べたい物が分からず、何を買っていいのか分からず、立ちつくしました。

 家に帰って考えました。「食べなければ持たない……」入社以降、だんだんと体重も減ってきていました。じゃ、どうすればいいのだろう。

……いやそれ以前に、私の本当に食べたいものって何だろう?

 私は考えました。そうだ、あそこなら、料理のすべてがあるじゃないか。そこに行って、自分の体に聞いてみることにしました。

本屋には、すべてある

 予想通り、すべてある!
 行った先は本屋です。本屋の料理コーナーには、世界中のすべての料理がそろっています。あいにく、レシピがあれば、何とか作ることはできたので、自分に聞きました。

「食べたいモノは何? 作るわ」

 まず、洋食ではない。中華でもない。東南アジア系でもない。和食でもいろいろあるんだ、ということが分かります。さらに、突っ込むと。一冊の本に出逢います。和食だけど、これは簡単に実践できそうだし、おいしそう。それが、マクロビオティックの料理本でした。

「はじめてのマクロビオティック―おいしい玄米菜食レシピ」 成美堂出版

 マクロビオティックにはいろいろ概念があるのですが、それを飛ばして、まず作って食べたかったので、作りました。作ることができるし、食べられる。 ふろふきだいこん、お豆腐のお味噌汁、きんぴらごぼう、なます……、で、当時頑張ってすぐにお弁当を作ってみました。

夜のおかずが入っているな

当時の日記です。

「食を制するものは人生を制する」

昨日、どこかの新聞の記事を読んで、
それは定年退職後のお父さん達の話だったけど、
「食を制するものは人生を制する」なんてまとめで終わっていた。
要は、自分の食べるものくらい自分で作りなさいよ、
それが生きる自信に繋がるんだから、ということなんだけど。

なんか最近はこれが、納得することしかりだったりするのでした。
二週間ばかり、玄米食にじわじわと切り替えて分かったことは、
意外といっぱい食べなくて良い、ということ。
(ちょっとしたおかず二品とお汁があれば、言うことなし)

なんだか量を食べないといけない強迫観念にかられて、
あーもう作るの面倒! みたいな感じで、辟易して。今週は全然応えてなくって、割と体の「持ち」が良かったです。
  

2006年4月16日 mixi日記

 この時、少しだけ「真似事」ができたんです。しかし、残念ながら、その後、食べる事より忙しさと疲れに負け、体が異常をきたしていきました。

きつねうどんと
きんぴらとかぼちゃの煮つけ

最近は、お弁当作ったり、よくしています。
朝、お弁当詰めるのも良いですね。
仕事前にアイドリングできてるみたいな感じで。
今日はお弁当お休みしましたが。
今日の晩ご飯は食欲がなかったので、きつねうどん。
ちゃんと油揚げを油抜きして、みりんと醤油で味付け。
昆布と椎茸のだしで、つゆも全部飲んでも安心。
体があったまりました~。
はー。 私の胃にはときどきこんなのがいいです。
最近は、かぼちゃの煮つけが簡単で美味しくてお気に入りです。
ではお休みなさい。


2006年05月12日 mixi日記

朝起きると、体が冷えている

 住んでいたアパートは1LDKで、一室が6畳の和室でした。そこに布団を引いて寝ても冷えたんです。夜、布団の中で寝て、朝起きても体が冷えている。なんだかきつい状態が続いていました。

 実家は古民家でしたので、隙間風がひどいとか、15㎝くらいのムカデが天井から降ってくるとか、田舎特有の覚悟がいる家でした。それでも、住まいを冷たいと感じたことはありませんでした。生まれて30年間、短大時代の1年の寮生活以外は全部、木造建築内で過ごしました。
 コンクリートの冷たさにも、慣れてなかったでしょうね。

2006年 自宅作業中