穀菜食|一般食を捨てたワケ・02|グレーゾーンの障害

 問題は過ぎてしまえば、問題の主人公としては意外と忘れているので、「え、そんなに?」と周りが言う場合があります。
 私の場合も、意外と忘れていて、解決した後からすると、そんなに大したことではなかったように思うんですよね。

 



1.周辺状況  中学時代

『あなたが自殺したら、体が辛かったからだと思うわ』

2011年 食養生をやり始めた町の大神宮

 中学校当時の私に、母が言いました(今でも時々言われます…笑)。

「あなたが自殺したら、体が辛かったからだと思うわ」

――「絶対にそれはしてやらん」と私は思っていました。

 何しろ当時の私は、「自殺はとんでもなくいけないことだ」と思い込んでいましたから。自殺は精神世界の観点からしても良くない事なんですが、思い方が頑固で過剰だったのです。状況を考えて「脱兎の如く逃げる」のも、戦法のひとつなのは、大人になればわかることです。そして母は、こうも尋ねたそうです。

「そんなに辛かったら、(学校に行くのとか、部活とかも)やめたら良いのに」
 すると私は、「みんなができるのに、私ができないの面白くない」と私は答えたそうです。(このセリフは覚えていません)…「逃げる」ことを良く知りませんでした。
 学校には、その後むりやりでも行けるようになります。ただ、家から学校までは自転車で約25分。自律神経は基本的に狂っていて夜眠れないものですから、朝起きるのが辛く、しばしば母の軽トラに自転車を積んで、学校の近くまで行って、自転車を下ろして学校まで行っていました。

 ただ、中学校2年生のときに、「早くお婆ちゃんになりたい。お婆ちゃんになって、縁側でゆっくりしたい」と、学校の先生に提出する日記帳に真剣に書いていました。
「そんなこと言わないで」
と、担任の先生はお返事くださって、私は「そうか普通はそうじゃないんだ」、と、気づく訳なんですけどね。いずれにしても、心身ともに疲れがマックス。

 今思えば、どこまでも「本当に休む」とか「リラックス」するということの自分への許可も行動も精神的にできなかったんだと思いますね。

ビンタの痛さが「薄い」

「医療の現場から」新聞挿絵 2004年

 ある時、私も何かトラブルに巻き込まれて、先生に怒られた事がありました。横並びに並んだ7、8人の同級生が、奥から一人づつ平手うちを打たれてくるんですね。

 この先生は体育の若い教官。小太りで童顔でサングラスで粋がってるけど涙もろいのを私たちは知っています。いろいろと解説が面倒くさかったので、先生が前に来たときに、私は生意気にもこう言いました。

「殴ってください」

 そうすると、問答無用で

…バシコンッ!

と、このように、平手打ちを食らわされる訳ですが(笑)。痛いと言えば当たり前に痛いんです。ただ、食らった瞬間に、私はこう思いました。

「…薄いッ」

 当時、中学校2年生。14歳でなかったかな。その時の私の体っていうのは、灸の治療痕は増えていく一方で、一番ひどかった腸のツボののある両肩は、ケロイド状になっていって行きました。

 のちに、お灸の先生の「気」の力が尋常でないと気が付くのですが、優秀な治療家の先生は、神経のつながりとさらに人体の奥まで見えています。それで、私は治療毎に、ある意味「“内”宇宙感のある痺れる痛み」になれていたので、叩かれた程度では痛みが薄いんです。

「内宇宙感がある痺れる痛み」ってどんなことなんですか、というと。
 ヒトの細胞はナノレベルの世界で動いてたりしますが、ツボに灸をすえると 痛みという”刺激”が、 神経を伝ってナノレベルまで、毎度突き付けて、全部見えてる感じがしたんです。そのため治療は、まず「痛い」。焼かれるので「熱い」。それに加え、体内のモーレツな神経伝達に「痺れる」と、感じていました。

 それと比べると、芝居じみた平手打ちなどは、恐ろしく確かに「薄い」上に「浅い」のは事実だったのですが。

2.身体状況 高校、短大、20代前半

グレーゾーンの障害という認識は、なかった

短大卒業時

 今でこそ、自分はグレーゾーンの障害があるのだ、と、認識があるのですが、私の10代20代の頃というのは、社会との接点も少ないですから、自分がどういう狭い世界にいるのかが分かりません。
 当然、社会認識も甘く、お灸の先生がいるから、頼ればどうにか動けるというので、良い気になっていました。短大卒業ころ、成人式前に首動脈の痙攣(完全に首がつってた)とか、そういうものも、果敢にお灸の先生が治療してくれました。でも、先のことを考えるとか、夢を持つとかいう事ができませんでした。なぜなら、いつ、自分の体に何が起こるか分からなかったからです。

 短大時代の友人にくっついて、スーパーのレジ打ちのバイトをしていましたが、3、4時間立っているとクラクラして、前が見えなくなることもしばしば。首から下が常に痛重くて、切り落としたいくらいのが、20代のはじめのころです。

 「人と同じには動けません」というのをすっ飛ばして動いていたので、足元はぐらぐら。でも、うちは裕福ではないので家にいる訳にもいかず、きちんと自立していかないといけないわけです。工場の事務員もやってみたけど、8時間机にいて体がついていかず居眠りばかり。結局自分が、動き続けられる現場はというと、得意分野でしか体が動かないたため、流れ着いた先は、結構体を使う映像現場でした。

良く描いていた、黒人の女性

「物を作り上げる」というのは、ある意味脳内麻薬の効果があります。
 よく運動中にハイな状態になるのを「ランナーズハイ」と言います。これはその時に、脳内からβ-エンドルフィンという物質が出ているのが分かっています。脳内麻薬の正体は β-エンドルフィン で、末期がん患者に使われる鎮痛剤のモルヒネと同じ作用があります。ちなみにβ-エンドルフィンの鎮痛剤の効果は、モルヒネの約6.5倍だということです。
 私の場合はモノづくりを通して脳内麻薬をわざと出していた可能性があり、それで体の痛みが軽減していたんだろうと今は思います。当時はCATVの番組制作のお仕事をいただけて、かつ、新聞挿絵も並行し、さらに他も手伝うというありさまでした。「ディレクターズ・ハイ」と、当時、勝手に命名していました。
 ここで間違ってほしくないのは、脳内麻薬は鎮痛剤ということなんです。痛みの根本原因は、解決していないということです。

「なんて手抜きがないんですか!」

 両方の仕事を知る人から、そう言われていましたが、手抜きの意味が良く分かりませんでした。来るものには、できる限り全力で、というのが当たり前だったからです。多分、腕は大したことがなくても、脳内麻薬が出るまでやるのが、私の基本だったんだろうと思います。自分の体が、一番楽になるのをよく知っていますから。

担当したイラストマップ、好評でした

 当時、乗っていた車はスバルのインプレッサワゴン。しかも、マニュアルということで、知る人が知ると「走り屋か」と問われる類の車でした。中古で購入しましたがハンドルが重く、ニアピンが続く山道の先に取材に行くだけで、私の背骨がずれたりします(笑)。そのため、長距離を運転してたあとは、よく寝込んでいました。当時は、体力を使う事があると3ヶ月後まで引きずっていました。くたった背骨を整え、私はただ良くなるまでの時間をやり過ごすだけでした。

 食べ物は基本的には、母が作ってくれたものが中心。外食では、お肉。時々大量に、野菜の煮込みとか食べたくなりました。

「斬鉄剣」と名が付く

お気に入りの時計

 「本当に休む」とか「リラックス」するということがなく、体の不調とかのストレスからは逃げられない、これが長く続くと、人間は「怒り」にシフトしていくわけです。

 10代、絵を描くのが好きで、手塚治虫の漫画に感動して、まねて漫画を描いていました。しかし、頚椎を痛めた関係で、絵の量産ができず職業にはならない、と悟っていました。それで、映像をスタートします。映画は地元ではやる手段がなかったので、漫画の物語の要素は、お芝居に姿を変えていました。私自身も少し舞台に立っていました。

 20代の時に芝居仲間から面白半分についたあだ名は「斬鉄剣」
 私にとっては「宇宙感のある痛み」が常にあるのが当たり前なので、同じ生きていてももともと視点が違うので、すべてに気づきが早い訳なんです。さらに体調が酷くても、先生の灸と薬でどうにかなっていたので、調子を軽くこいてまして。できるじゃん自分、なんて勘違いをしていたんです。

 わたしの行く道の後ろには、草一つ生えない勢いで良く人を斬っていた気がします。そして、その道理が効くのも、厄年の32歳くらいまでだった訳ですけど。