ここのブログ主こと晴子さんは、肉・魚・牛乳・卵、食べられないから。「動くものは食べられない」と、解説で良く言われます。
- 目次:かれこれ、穀菜食も11年か。
- 1.穀菜食者
- 当方、穀菜食者。 ヴィーガン ではありません。
- 自分の食べ物は、自分でデザインする
- 2.近年の食べ物状況を考える
- 食べ物においてのジャパンクオリティーとは
- アレルギーという不自然
- ヴィーガンという不自然
- 真理と呼ばれるものは、時に身勝手
- 3.実施状況 2019年
- とはいえ、真面目ではない私の食事
- とはいえ、真面目ではない私の食事
1.穀菜食者
当方、穀菜食者。 ヴィーガン ではありません。
改めまして、藤田晴子です。当方は、穀菜食者ですが、ヴィーガンではありません。特別、それを誇ったりしませんし、人にも薦めません。多分、ベジタリアン系では相当変わったタイプです。そのため、周りの環境は意外と肉食系(笑)のところに突入しているのが常です。そんな人から見ると私は「動くものがダメな人」というカテゴリーに入っています。
以前、穀物菜食の事を書いたら、「お肉を食べたらいけないんですか」と、調子が悪い方の相談を受けることがことがあったのですが、だんだん箸の上げ下ろしレベルになってきたので、
「そんなことは自分で決めろ」
と、キレたことがあります。
最近は、子供より大人の方が思うことを実践する力がないのか、と、うがった見方をしてしまいます。
人の体というのは個々違うものですから、自分の適切な食べものくらい見つけてその上でよりよく食べることとか、感じて欲しいですね。
自分の食べ物は、自分でデザインする
今私が食べないというか食べられないもの、肉、魚、牛乳卵はそのものは無理です。出汁、パン、バターやチーズも混ざっていたら大丈夫だけど、食べると何となくおかしくなってくるので、戻るところは必ず私の場合は、具沢山のみそ汁とごはんです。
最近はさらに、食も少なくしています。それから週に一日くらいで断食。内蔵が休んでいいですね。
今、問題にしなければならないのは、人のデザイン設計された食だと思います。ことに、工場で大量生産している人工的な食事に偏っていませんか、ということだと感じます。
このデザインされた食というのは、洋服の流行の色や形が決められているかのように、企業が売りたいものを宣伝で受け入れるようなことになっていませんか、という疑問です。
2.近年の食べ物状況
食べ物においてのジャパンクオリティーとは
工場で作る食品は、何が混ざっててもおかしくありません。世界で一番、添加物が多いのは残念ながら日本です。
2019年になり、新しく許可された添加物があるとかで、このうちの一つは肉に添加して一晩くらい放置すると、肉が増量できるとかで飲食店が経費削減できちゃう。素晴らしいとかと、使っているとかも耳にして、総じて、人の体と食をなんだと思っているか頭が痛い話題でした。
実際に、インドネシアの津波で被害にあった場所では、ほかの国の人は1・2日で死体が腐っていくのに、日本人の体だけは防腐剤で満たされているので腐らなかったというのは、よく聞く話です。
今や「ジャパンクオリティー」は、食や身に着けるものすべて、添加物満載の食べ物を平気で生産していて何も思わないところ。自分の意思がなく、思考も大量生産型人間で動きもしない感じないように教育からさせてしまっているところ、でしょうか。
そして、調子が悪いんですと病院に「病気を見つけてもらい」薬漬けされ、やもすれば、医師に余命を切ってもらい、その通りに霊安室に安置してもらう、というような……。ぶっちゃけると、薬品会社が添加物を製造している関連も考えると、良くできたビジネスモデルだとも感じます。
自分の食事の本質を忘れている場合があるだろうということでもあるのです。そうして体の調子が悪くなる。食の「本」は、インスタ映えじゃないし、流行りじゃないのです。
私の食についてやってきたことっていうのは時々、医師が不思議がる時があるのですか、結果的にそれくらいの知識と、食べる本質を実践しないと戻ってこなかった、っていうことだと思うのですよね。もちろん、途中で先人の手は頼っています。
結果的には、現在別人のようだと自他ともに認めるところですが、自分で自分の食を元にデザインし変えて成功していることだとは思います。
アレルギーという不自然
「食物アレルギー」とは、特定のものに反応する場合がありますけど、私はその体そのものが不自然だと感じています。おかしくないですか。
ヒトも自然ですからね。その体が何か食べると、死に至るほど発作が起こります。そっちの方が不自然なんですよね。人の本来の体をしてないと感じます。こういう方こそ、食べることで自分の体を変えてみて欲しいと感じます。
私は肉は間違って一口食べるけど、余力がありますし、カキにあたる人がいるけど、これも、まだ命までを奪われることはなく、余力があります。体に合う合わないはあるにしろ、本来の「自然の反応」ってそうしたものだと思います。
この場合は人の体の方が機能してない状態なのかもしれません。
あくまでこれは持論なので、ことに西洋医学の医学の言い分とは違います。
ヴィーガンという不自然
そもそも、ヒトって植物を積極的にできる体ではありませんでした。という話があり、そうして、穀物を作ることは脳みその大きさや知恵も知識も伴わないとできないことです。ヒトという霊長類は、脳を大きくして使いながら生活してきたわけです。そうすると、飢えに対する余剰もでき、文化もできて現在に至っておりますので、肉は別に召し上がっても良いかと思うのですけどね。
ヴィーガンの主張するところは、動物を殺めると彼らが痛いと思うのでやめたいということなんですよね。でも、最近の科学的主張では、植物も痛みを感じるという研究結果が出ています。
デモ活動に至るというのは、なんか政治的左右と同じ感じになっちゃったのか、裏で資金が回っている可能性もあるなぁ、と当然のように思い、宗教上のヴィーガンとは、ちょっと分けて考えたほうが良いかな、とも個人的には思いますね。
国の行政、霞ヶ関内を動かすような、整理された市民活動というのは、別にやるべきことが(命に係わることで)今はあるのですから。
真理と呼ばれるものは、時に身勝手
真理の実験とは、インドの独立をしたガンジーのごとくで、ヒンズー教徒の習わしで幼年婚だったけど、30半ばで夫婦関係は勝手に終了し、当然、性行為によって生まれた子供は忌むべき存在で、存在感を失った長男は、父を憎み最終的には野垂れ死ぬことになるワケですが。
インドを無事に独立させたガンジーは、最終的に性も捨て、実際に「母」になるべく、姪っ子と裸で眠ったりするのですけど……そして「母」に実際になるのですが、そこまでいけば、真理を達成したといえるですが。食においても、それくらい行けば間違いないのでしょうけど。(ヴィーガンの行き着く先は、おそらく不食のヒトかしらとも……)
正直なところ、本当に食事を整えて、真理を全うし人としての器があるなら、もっと大きなものに目が向くだろうな、とも感じますね。
ヴィーガン的な鉄板反論として「家畜を育てないことによって、穀物量が減るので、地球上に目が行ってるじゃないか」というのがあるんですけど、確かにそうでしょう。
一利は認めますが、ただそれは非常に善悪と二元的。何に対しての善悪かというのを整理してほしいですね。
土地に根付いた文化や歴史、生きてきた人文的要素は無視されている感が否めません。その土地や国に生きるというのは、人文的要素も多いに尊重してでないと人の食も生活も成り立たないのでは、とするのが私の持論です。
3.実施状況 2019年
とはいえ、真面目ではない私の食事
以前の、本当に命からがらだった10年前に比べるとゆるい感じでしょうか……(笑)と、本人は思っているだけの可能性がありますけど。
ただ、食事量はどんどん減りつつありますが。開始当時とは人間としての考え方もずいぶん違います。
食事というのは、良くも悪くも、思考にも多いに影響するということには違いないと思います。